敵対する者のために祈る ローマ 9:1-5

今日から9章に入ります。先週8章31節から39節を読みました。ここでパウロは1章18節から続けて参りました一つのテーマを語り終えます。信仰のみによって救われるのだということ。救われた者がどのようにして人生を生きるのか、そしてこの世を去った後はどのような者とされるのかが語られてきました。ここまで来て、特にユダヤ人の人は思うわけです。ユダヤ人であろうがそうでなかろうがただイエスを信じる信仰によって救われるのであれば、イスラエル民族が神様に選ばれた民族だと聞いて来たけれど、それはどうなるのだ、という疑問です。パウロは、11章までにかけてその問題を論ずるわけです。今日は、その最初の部分ですが、ここでは2節にありますパウロの深い悲しみ、絶え間のない心の痛みという言葉に焦点を当てて神様に聴きたいと思います。パウロには深い悲しみがあった。ただの悲しみではなく深い悲しみだというのです。心の痛みがあった。ときどき感じるのではなく、絶え間ない痛みだというのです。一体何を悲しみ、何に心の痛みを感じているのかといいますと、兄弟たち、肉による同胞、つまりユダヤ人の事だというわけです。自分たちこそが律法を守ることによって神様に良しとされていると思い、キリストの贖いの死を無用のものとし、異邦人も神様に愛されているという真理に激怒している、神様に近いと思いながら実際は遠く離れ、自分たちこそ救われていると言いながら全く救いから遠い彼らのためならばキリストから離され、神から見捨てられた者となっても良いとさえ思っているというから尋常ではありません。キリストから離されるという事が何を意味するか、救いのない者、希望のない者となることであると十分に知っての上で言っているのですから。そして、ユダヤ人たちは信仰に対して全くトンチンカンなところに立っているけれどもパウロの神学、信仰は、それはそれとして尊重しているなどという事ではないのです。敵対しているのです。ただ敵対しているだけではない。使徒言行録を読みますとその事がよくわかりますが、例えば21章27節から読んでみますと人々がエルサレムの神殿でパウロを見つけ大きな混乱が起こった事がありました。30節から32節に「都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄ってきて、パウロをとらえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。彼らがパウロを殺そうとした時、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が守備大隊の千人隊長のもとに届いた。千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた」とあります。すごくビビッドな描写です。人々の叫び声、駆け寄る足音と舞い上がる砂埃、人々の憎悪に満ちた顔が見えるようです。私だったら震え上がり、すくんでしまうような場面です。そして人々は憎しみの言葉を口にしながらパウロを殴り続けたのです。ローマの兵隊が来なかったら、殺されてしまっていたでしょう。その後、パウロは証しを語る事が許されましたが、それを聞いた人たちは「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」とわめきたてたと22節にあります。パウロはこのような人々の魂を思って悲しみ、心を痛めたというのです。確かにイエス様も、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えました。このことを聞く時、わたしは最初に北朝鮮の事を思いました。でも、まず心に浮かんだのはその国にいる主にある兄弟姉妹たちのことです。北朝鮮の人口は2,537万人です。そして、30万人から40万人のクリスチャンがいると言われています。人口の1.1%から1.5%です。日本と同じくらいの比率でしょうか。しかし、これは筋金入りの人たちの数字です。キリストを信じていることが分かったら自分はもちろん親族もろとも過酷な収容所に入れられたり殺されたりしてしまうのです。世界で最も危険な国の一つです。そのような中で数えられる人たちの数字です。驚くべきことに、10年前に比べて何倍にも増えているそうです。脱北してキリスト者になり、イエスを伝えるために戻る人すらいるそうです。命がけです。この人たちのために祈らなければなりません。しかし、その国を支配している人たちについてはどうでしょうか。ミサイル発射と核実験を繰り返し、わたしたちの国の上を越えてミサイルが飛んでいきます。このような国については滅亡を願い求める事も神様は許して下さるのでしょうか。さらには、このような乱暴な国が消し去られることを祈るべきなのでしょうか。確かに困った国かもしれません。キリスト者を迫害する国かもしれません。しかし、もしも裁かれるべきなのだとしても裁くのは神様のいわば専権事項です。私たちにイエスは何を語られているのか。彼らのために祈れという事です。その国が世界に向かって真に開かれることも嬉しいですけれども、それと同時に、いや、それ以上にキリストに向かって開かれるように祈ることです。神様は、わたしたちにそのような使命を与えておられます。主は、「すべての民を私の弟子にしなさい」とおっしゃったのです。すべての民の中には友好的な民もいれば、その逆の民もいます。その、すべての民のために祈ることを望んでおられるのです。個人的な敵対者についてはどうでしょうか。ローマの信徒への手紙12章18節を口語訳聖書で読みますと、「あなたがたは、出来る限りすべての人と平和に過ごしなさい」とあります。出来る限りです。向こうの方で平和を壊すかかもしれないのです。困難かもしれないけれど、できる限りこちらからは平和を壊すなと言うことです。全然問題が起きないわけではないのです。同時に14節で「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われています。呪う方が自然なのかもしれません。そのような人のために祝福を祈るのは、肉の性質からは不自然です。それが分かっているから「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われているのです。パウロがこのことを伝える時、「この人たちを赦して下さい。何をしているか分からないのです」と祈ったイエスの言葉が響いていたかもしれません。でも、呪っているならば、とんでもない人だと怒り、歯がみしているならば、実はその人に心を支配され、振り回されている事です。自由ではないのです。でも、祝福なんか祈れないと叫びたくなります。「神の小屋より」という映画を観ました。通り魔のような人に大切な娘さんが殺されてしまったクリスチャンの話です。その人が神に招待され時を過ごす。詳しくストーリーを申し上げる時間はありませんが、その中で「今日、しなければならない事はとても苦しい事だ」と言われます。それは、娘さんを殺した人を赦すという事だというのです。とても出来ないと頭を抱えて叫びます。でも、確かにその人は毎日犯人への憎しみに支配されて過ごしています。大きな葛藤の中で、赦すことを決めます。感情的にオーケー、水に流しますというのではありません。感情ではなく意思から始まります。全然気持ちがついて行かない。でも、主がそう言われるから、「呪うのではなく祈るのです」と言われるから、聖霊様、どうか助けて下さいと言いつつ祝福を祈ってみてください。そうし続けて下さい。フィリピの信徒への手紙4章6節を口語訳で読んでみます。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
」あなたがたの求めるところです。感じるところではありません。祝福を祈ることを求めますか。心がついて行かない。でも、そうしようと決める事を求めますか。求めて下さい。そこから先は神様の御業の領域です。一度で辞めないで、心がついて行かないままでも続けてみましょう。神の平安がある。それは神様の約束ですから、必ずそうなります。わたしがどんな目に遭ったか、あっているか知ったらそんなのんきなことを言えないだろう、と思われる方もいる事と思います。お前にはそれほどの事がないからそんな事を言えるのだろう、と言われるかもしれません。しかし、それに対して私は反論できません。ただ、神様の言葉を信じて頂きたいと願い、また、聖霊なる神様がどうかその人の心に働きかけて下さいと願う事しか出来ません。映画の主人公のような大きなことではありませんが、正直わたしにもやはり困ったなという人がいないわけではありません。振り回されていました。今も、時々振り回されます。でも、神様の御言葉は生きている。真実だ。力がある。その事を信じて祝福を祈ります。そうし続けます。あなたにもそのような人がおられるなら、どうか神様に信頼して呪うのでなく、祝福を祈って頂きたいと思います。

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