最も大いなるもの、愛 第一コリント 12:31b-13:13

今日は、コリントの信徒への手紙一から神様に聴こうと思います。この手紙の12章で、私たちに与えられたいろいろな賜物があげられています。コリント教会では賜物競争といいましょうか、誰の賜物が優れているかが話題となっていました。メッセージを語る賜物や音楽の賜物、食事を作る賜物やお掃除の賜物。そのように、いろいろな賜物があるわけですが、どれが一番上等といいますか、賜物にランクをつけていたわけです。そんなコリントの教会の人たちにパウロはどの賜物も神様から与えられたもので上下はないこと、そして、愛を持って賜物を用いるべきこと、愛がなければはじまらないよ、ということを伝えたわけです。13章1節から見てみますと、愛は言葉に優先する。どんなにすばらしいことを語ろうと、愛がなければはじまらない。知識に優先する。どんなに知識があっても愛がなければはじまらない。信仰にも、ささげることにも、自分を犠牲にすることにも優先すると語られています。そもそも、愛とは何だろうか。そのことを聖書を通して学びたいと思うのです。まず、私たちみんなが犯しているであろう愛に関する誤解について話したいと思います。それは、愛は感情だと思うことです。私たちは誰でも、ある人に対して愛を感じます。それは子どもであったり、妻や夫であったり、可愛いなー、カッコいいなーと思う人であったり、そのような人に好意を持ちます。愛とは気持ち、感情だと思うのです。そうだとするとヨハネの福音書13章34節でイエス様はなかなか難しい要求を弟子たちにしたことになります。「互いに愛し合いなさい。」そうおっしゃっています。どうも理解ができない、好きになれない人でも好きになりなさい。愛情を感じなさいとおっしゃったことになります。そんなことができるでしょうか。イエス様は、そんな難しいことを要求されたのでしょうか。ヨハネの手紙一3章18節に答えがあるようです。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」愛とは、感情の問題ではなく行為の問題だとわかります。旧約聖書を読むと、いやな奴の家畜が穴に落ちてしまっていたら、その家畜を助け出しなさいと命じています。助け出している最中も、今までに言われた嫌なことを覚えていますし、ああ、いやな奴だなと思っているかもしれません。でも、その人の家畜を助け出す時、彼は、その相手を愛していることになるのです。愛とは、感情ではなく、行為だからです。
ということは、愛するとは選択であることが分かります。感情であるならば選択をするとかしないとかは関係ありません。好きな人は好きですし、そうでない人はそうでないでしょう。でも、愛とは行為に関することであるならば、そうしようと決めることができます。そして、そのような選択をしなさいと神様はお命じになっているのです。ですから、行為の前に、初めから感情としての愛情が伴う場合もあるでしょうし、行為の後に感情としての愛が生まれることもあるでしょう。でも、感情としての愛情とかかわりなく愛の行為がなされる場合もあるのです。他の人の必要に心を向け、できる限りその必要にこたえようとすること、それが愛だということです。そして、その必要は物質的な必要の場合もあるでしょうし、または、感情的な必要、分かってほしい、話を聴いてほしいというような必要の場合もあるわけです。そして、14章1節に「愛を追い求めなさい」とありますように、愛は、追い求めなければならないものなのです。決心して、一生懸命に、追い求めるべきものなのです。私たちは、元来は、行為としての愛について怠け者なのかもしれません。教えられなくても、励まされなくても愛する者ではなく、いつも愛そう、人の必要に応えようと心がけて初めて愛せるようです。さて、その愛はどこで実践されるのか。信仰生活との関わりでいうならば、教会においてです。このメッセージの最初に触れましたが、イエス様が互いに愛し合いなさいと命じたのは弟子たちに対してでした。教会です。先ほどヨハネの福音書の13章34節で「互いに愛し合いなさい」という言葉を聴きましたが、それに続けて35節では、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスはおっしゃいました。“皆”とは、まだイエスを知らない人たち、神様に愛されていることを知らない人たちです。教会の中で愛が実践されていることが最高の伝道だとイエスはおっしゃったのです。エフェソの信徒への手紙3章21節には、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」とあります。どのようにして、教会を通してイエスの栄光が現れるのか。教会が愛に生きることによってです。ですから、私たちは愛し合いましょう。お互いの必要に気を配りましょう。その中で、出来ることを、行為をなしていきましょう。そして、その愛は、教会の垣根を越えて外に流れ出ていきます。私たちは、定期的に、また緊急の場合には、その必要に応えて捧げものをしています。東北、九州の被災地に捧げてきましたし、これからもしていくつもりです。衛生的な環境と勉強をすることができる環境を必要とする世界の子どもたちの必要に、少しでもと捧げものをしてきました。地域にあっても必要な方々に食事を提供させていただいたり、また、子育て中の人たちの心の必要に応えたいと場を設けさせていただいています。でも、まず教会の中で愛が追い求められ、実践されていないならば、いくら外に向かっていろいろなことをさせて頂いてもむなしいものとなってしまいます。そして、お互いが愛することの源は神様を愛すること、神様を愛することの源は、神様に愛されていることを深く、より深く味わうことです。ヨハネの福音書3章16節の“世”を“わたし”に置き換えて読んでみましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、私を愛された。独り子を信じる私が滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を私に使わされたのは、私を裁くためではなく、御子によってわたしが救われるためである。」たとえ、世界にあなた一人しか人間がいなかったとしても、神様はあなたを救うために、さばきを引き受けてくださるために人となってきてくださったのだ。イエス様は来てくださったのだ。ここに、究極の愛があります。私たちの最大の必要は、衣食住ではありません。もちろんそれらも必要ですが、罪の赦しは、それ以上の必要です。その必要を満たしてくださったのです。愛の行動を起こしてくださったのです。そのことを味わい、味わい、味わいましょう。一生味わい続けましょう。私たち一人一人がそうする時に、私たちの教会は愛の教会になることができます。愛は選択でした。愛することを選びましょう。愛そうと決めましょう。主が、その思いを受け入れ、実践する力を与えてくださいますように。

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