本当に素晴らしいこと マルコ 7:37


昨年の最後の主日メッセージを覚えておられると思います。マルコによる福音書7章37節からのメッセージでした。2018年最初の礼拝メッセージも同じ個所から取り次ぎたいと思います。先週は、一年を振り返って神様の恵みを数えるという視点からのメッセージでした。今日は、37節の後半までを含めて、耳が聞こえるようになる恵み、話せるようになる恵みについて考えてみたいと思います。私たちの教会の仲間の中に耳がご不自由な方はいらっしゃいません。話すことにご不自由な方はおられます。しかし、今日のメッセージは、体の機能という意味で聞こえる、話せるということではありません。そうではなく、霊的な意味でと言いましょうか。本物を聞き、本物を話すということについて聖書からお伝えしたいと思います。ここまで私の話を聞いて、すでに「耳のある人は聞きなさい」としばしば言われたイエス様のお言葉を思い出した方もおられると思います。その時、イエス様が語っていたのは耳の不自由な人たちにではありませんでした。だから、主がおっしゃっていたのは、真理の言葉を聞きなさい。聞くべきことを聞きなさいという意味でした。昨年末、一つのニュースがありました。高速道路であおり運転をして相手の車を止めたところ、そこに他の車が突っ込んでご夫婦がなくなってしまったという事件に関することです。この加害者の町に、その人と同じ名前の会社があるそうです。誰かがネットに書き込みました。その乱暴な事をした加害者はこの会社の経営者の息子だというものです。まったくの誤りなのですが多くの人たちが信じてしまい、しかも、その中から心ない人たちがひどい誹謗中傷を行ったそうです。真実でないものを聞き、信じ、この場合は卑劣極まりない行いなわけですが、それに動かされた人たちがいたということです。この話は、私たちから遠く感じるかもしれませんが、世の音と言いますか、声と言いますか、そのようなものの内に真理でないものがたくさんあります。詩編33編16節、17節には、「王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。」とあります。これは、数と力こそが勝利の源だという世の声が聞こえているからこそ意味を持つ御言葉です。そして、この言葉はいつの時代にも、もちろん今日にも聞こえてくる言葉です。結局、兵の数と力こそが安心と幸福のもとだ。もっと身近にいえば有名な学校に行き、だれもが知っている会社に入り、そこで出世して、子どもも力で生き抜けるように育てること。それがあなたを価値あるものにするのだ。大っぴらには言わないけれど、そのような基準で本来等しいはずの人の価値を、上下をつけてしまう。決して他人事ではなく、私たちもそのような声に影響を受けていることを知らなければなりません。かつての自分を考えれば確かにそのような声を聞き、その声によって教育され、その声におびえ、またはその声によって高慢になっていたのではないか。しかし、「この方のなさったことはすべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし」とあります。つまり、偽の声を聞いて振り回され、支配されることから解放してくださるのはイエスであり、私たち自身ではないということなのです。聖霊なる神様が私たちの耳を開いてくださるということなのです。詩編20篇8節をお読みしましょう。「戦車を誇るものもあり、馬を誇るものもあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。」先程の33編では、王の勝利は数と力ではないと読みましたが、ここではさらに、「我らは、われらの神、主の御名を唱える」とあります。この詩人もかつては戦車を誇り、馬を誇る者の一人だったのでしょう。しかし今や、我々は、と言います。自分もかつては向こう側の声を聞くものだったけれど、今はこちら側で主の声を聞くものとされたという感慨が伝わってくるような言葉です。さて、本当の声はどのようにしたら聞こえるのでしょうか。聖霊の働きによって、その通りです。しかし、聖霊はすべての人に働きかけておられます。それではどうすれば。主は、マタイの福音書11章25節で、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵あるものや賢いものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました」とおっしゃり、さらに18章3節では、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない」と言われました。この世でいう知恵や賢さによって真の言葉を聞くことはできない、それは隠されている。幼子こそが真の言葉を聞くのだとおっしゃったのです。そして、だれが幼子なのか。誰でも幼子になれるのだ。どのようにして?心を入れ替えて、つまり、神様の言葉に真剣に耳を傾けることにしようと決めることによって私たちは神様の前に幼子となり、幼子になる事によって真理の言葉は聞こえるのだということです。「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている」という詩編139編の言葉、また「私の目にあなたは高価で尊い」というイザヤ書43章4節(新改訳)の言葉、それらの言葉を聞くことができるようになるのです。次に「口の利けない人を話せるようにしてくださる」とありました。聞くべき言葉を聞いて、初めて話せるようになるのです。話すとは自己表現です。よい言葉、真理の言葉を聞いていな人は真の言葉を話すことはできません。つまり、自分は神の作品、神様によって驚くべきものに造り上げられているもの、他にない、ユニークなものとして作られているものであり、だから私は私のままでいいのだ、というところから自分を表現し、生きることはできません。鎧を着て、槍をもって、誰かに本当の自分を見られないか、鎧のほころびはないか、と恐れます。その鎧こそは、世の声による鎧、どれだけ持っているか、どれだけ強いか、どれだけ速いかという鎧です。誰かに欠けを見つけられるのではないか、恥ずかしいところを見られないか、馬鹿にされないかと作った自分を生きようとします。そして、恥ずかしいところを指摘するのは周りの人だけでなく、実は自分自身も指摘する。そして自分こそが最も恐れる相手です。そういう意味で話せない。人の目を気にしながらしか話せない。人の目にかなうところでしか生きられない。そして、それができなくて、疲れて、生きづらさを感じている人がたくさんいらっしゃる。というより、私たちみんなが生きづらいのです。そんな私たちを話せるようにしてくださるお方。イエス・キリストにより良しとされ、つまり、罪を赦されて、自分を生きることができるようにしてくださった。解放してくださった。それがキリスト者です。もちろん戦いがあります。真理でない声は執拗に語りかけます。その声によってぐらつきそうになる事があります。口の利けない自分に戻る力がいつも働きます。人の目が気になります。しかし、その時に聖霊なる神様が支えて下さることを覚えましょう。真理の言葉、聖書の言葉に耳を傾け続けましょう。聞いた言葉を分かち合い続けましょう。主のなさったことは、すべて素晴らしいのですから。

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