歴史の向かうところ(希望に向かって) ローマ 8:18-30

私たちはどこに向かっているのでしょうか。歴史はどこに向かっているのでしょうか。先は明るいのでしょうか。それとも暗いのでしょうか。私たちの国の周りでは、きな臭い匂いがしています。私たちの周りだけではありません。世界のあちこちにテロ組織があり、事件が起こっています。何だか歴史は暗い方に向かっているように見えます。個人としての私は、あなたはどこに向かっているでしょうか。先は明るいのでしょうか、暗いのでしょうか。いろいろな苦労に満ちていて明るいようには思えないとおっしゃるかもしれません。しかし、神様は私たちの、またあなたは間違いなく希望に向かっていると語ります。今日、その事を確かめたいと思います。最初に、先ほど読んで頂きました19節から22節を思い起こして下さい。被造物について言っています。被造物とは自然の事です。自然とは自ずとなるという意味で、偶然に自然が生まれ、進化しているとの見方を反映しています。聖書は、偶然ではなく神様が創造されたのだとの真実を語りますので、そのことを反映して被造物、造られたものと言うのです。その被造物はどこに向かっているのだろうか。オゾン層の破壊、天候の激変、森林がどんどん伐採されて行く事、そして地震や津波と、どんどん破壊されて行きます。まさに未来は暗いと思われる現状です。その事を聖書は被造物を擬人化して、虚無に服している、滅びへの隷属にあり、うめき苦しんでいると言っています。エントロピーの法則という法則があるそうです。すべてのものは崩壊に向かっているという法則だそうです。確かに私たちを含めて生きているものは老いて行き、物は腐って行き、また岩は風化して行くというように崩壊に向かっています。それでは、被造物は、やがて滅びるのだろうか。希望はないのだろうか。そうではなく、21節に「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」のだとありました。被造物には希望があるのです。回復するのです。それは、例えばイザヤ書が11章6節から10節に「狼は子羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子とともに育ち 小さい子どもがそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴にたわむれ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何物も害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。」と伝えています。被造物の将来は希望に満ちているのです。そして、それは人の将来と連動している事が分かります。21節に「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるから」とあったからです。神の子とは誰の事か。ヨハネの福音書1章12節に「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。そして、“自分”とか“その名”とはイエス・キリストの事であるわけです。つまり、イエスを救い主と信じた人は神の家族に迎えられ、神の子とされるのです。被造物は、その神の子たちの栄光に輝く自由にあずかる希望があるのだという事です。あなたはイエスを信じているでしょうか。イエスはあなたの救い主でしょうか。そうであるなら、あなたは神の子です。その、あなたの将来は明るいのでしょうか。明るいのです。23節に「霊の初穂を頂いている私たちも神の子とされる事、つまり、体の贖われる事を、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです」とある通りです。ここで言われている神の子は、イエスを信じた神の子の救いの完成した姿を言っています。体が贖われた後の状態を言っています。体が贖われるというのは、聖書では救いの完成を意味する表現なのです。イエスを信じても罪の性質はそのままです。相変わらず神様だけでは不安になったり、神様よりも自分の経験や勘、そして人さまの助けの方が頼りになったり、そもそも神様なんて言っていて大丈夫だろうかと疑ったり、さらに羨んだりすねたり、自慢したり卑下したり、神様の目より人の目の方が気になったりと、そんな私たちです。これで天国に行けるのかしら。これでも神様は私を子としていてくださるのかしら。将来は暗いのではないのかしら。いいえ、将来は希望に満ちている。希望がある。体は贖われる。今は心の中でうめいているかもしれない。でも救いは確実で、そして完成されるという希望です。ただ、今申し上げましたように、その時までつまずいたり転んだりです。それだけでなく、キリスト者になっても病気になったり経済的につらい時があったり、そりの合わない上司のもとで働かなければならなかったり、お隣としっくりいかなかったり、あろうことか教会の中に混乱が生じたりすることすらあるかもしれません。ゴールへの道は平たんでまっすぐではなく山あり谷あり、まさかという坂ありというのは全ての人に共通です。でも、私たちは独りじゃない。孤独じゃない。助け主、聖霊がいてくださる。そのことが26節以下に書かれているのです。まず第一に、聖霊がとりなして下さる。肉の思いにすぐ傾いてしまう私たち。神様の子なのにすぐ不安になってしまう私たち。悪魔は神様に、そして私たちに「これが神の子か。これでもキリスト者か」と訴えます。でも、聖霊がとりなして下さる。「この人はイエスを神の子、救い主と信じた人です」。この人の徳によってではなく、父なる神よ、十字架の贖いによって神の子なのです。あなたが救われ、ご自分のものとした人です」。第二に、人生色々ある。喜ばしい事よりむしろその逆の事、苦労の方が多いかもしれない。でも、28節。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くという事を、私たちは知っています。」アーメン。共に働くのです。その苦労、その苦難は出来ればいらない事、ではないのです。確かに、その中にいる時は怖い。マイナスとしか思えない。でも、すべては相働いて益となる。私の約束ではありません。神様の約束です。第三に神様の保証です。29節と30節。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」。以前学んだエフェソの信徒への手紙1章と響き合います。私たちが何かをして、善行を積んで、良い人になって、それを見て神様が罪を赦したのではない。神様はすでに選んでおられた。定めておられた。そして、誰でもイエスを信じる時にその選びは実態になるのだと聴きました。そして、キリスト者たち、義とされた人たちに栄光、すなわち体の贖い、罪の存在すらからの解放を約束しているのです。30節の終わりは「栄光をお与えになります」ではなく、「お与えになりました」と過去形、あるいは完了形になっていました。将来の事なのにそのように書くのは、それが確実で動かない事を表す表現です。被造物の将来は希望に満ちています。私たちキリスト者の将来は希望に満ちています。そのゴールへの道は神様の執り成しと、知恵と、決心によって支えられているのです。最後の、今日触れませんでしたがこの世界はどうなるのだろうか。核開発競争、紛争、ミサイルの応酬によって滅びるのだろうか。将来はないのだろうか。そうではない。歴史も神様の勝利で終わる希望に向かっています。その事を、今日はイザヤ書2章4節を読んで確認してメッセージを終わりたいと思います。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を討ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦う事を学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0