死は終わりではない ヨハネ 11:17-27

このお話しは11章1節から44節までにわたっています。ラザロが死から甦ったという出来事です。1節から始まっていますが、今日は17節から、ラザロの死から4日目の光景から始めたいと思います。もう、4日も経っていたのです。人が死んでから二日間は、もしかしたら死んでいないのではないかと考えられていたそうです。だから、4日も経ったということは、本当に死んだのだとだれもが認めなければならない、それだけの時が経っていたということです。ラザロの姉妹、マルタとマリヤはその事実に圧倒され、悲嘆にくれていました。でも、その悲嘆はわたしたちが愛する人を失った時の悲嘆とは少し違う悲嘆でした。なぜなら、彼女たちは6日以上も前にイエスにラザロの病気を伝えていたのですから。イエス様は、ヨハネが最初にバプテスマを授けていたところでそのことを聞いたようです。ご自分がバプテスマを受けられたところです。姉妹は、イエスがそこにおられるのを知っていたのでしょう。イエスは、聞いてから、なお2日そこに滞在し、それから二人の姉妹の町ベタニヤに向かいました。ですから、すぐに来てくれると思っていたイエス様がもう到着するだろう時に来られない、一日経っても来られない、二日たっても来られないということですから、ラザロの死に加えてイエス様が来て下さらないという事が悲嘆を大きくしていたに違いありません。それにしても対象的です。二人は悲嘆にくれているのにイエス様は、何とも鷹揚です。慌てて出かけることをせず、口語訳聖書で読むと「この病気は死ぬほどものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(4節)とおっしゃり、「わたしたちの友ラザロが眠っている。私たちは彼を起こしに行くのだ」(12節)とおっしゃっています。しかし、弟子たちが「眠っているのであれば、助かるでしょう」と言うと、「ラザロは死んだのだ」とおっしゃいます。訳が分かりません。そんなイエスがベタニヤに到着しました。外向的な性格のマルタはイエスを、ちょっとなじるような口調で言います。「主よ、もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。しかし、マルタはそこにとどまらず、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、わたしは今でも承知しています」((22節)と続けます。確信に満ちているということではなかったような口調です。だから、イエスがすぐに来てくれなかったという事実がある今でも、と言っているのです。どうして、すぐに来て下さらなかったのですか。ラザロは死んでしまったではないですか、という思いと、でも、イエス様は何かをして下さるはずだという期待との入り混じった気持ちを反映する言葉です。イエス様は、「あなたの兄弟は復活する」と断言します。マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。すると、イエス様は不思議なことをおっしゃいます。25節です「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」長い前置きでしたが、今日はこの言葉について思い巡らしたいのです。死んでも生きると言い、生きてイエスを信じる者は死ぬことがないとおっしゃいます。でも、この日の出来事から2000年がたっていますが、その間、イエスを信じる人々はみな世を去りました。私たちも、いつか死ぬことでしょう。しかし、それでおしまい。あとは、しばらく家族や親せき、友人の記憶の中に生きているかもしれないけれど、それも段々と薄らいでゆき、ついには忘れ去られてしまうだけ。普通、そう思うでしょう。しかし、イエス様は、死は最終的な終わりではなく、人は復活するのだとおっしゃったのです。死は、人には解決できない問題です。医学の進歩によって、今まで救えなかった命を救う事が出来るようになりました。命を延ばすことも出来るようになりました。しかし、それでもいつかわたしたちは、みな死にます。しかし、希望がある。復活の希望がある。コリントの信徒への手紙一15章42節、43節で、パウロを通して神様は語られます。「死者の復活もこれと同じです。まかれる時は朽ちるものでも、朽ちない者に復活し、まかれる時はいやしいものでも、輝かしいものに復活し、まかれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。」蒔かれる時とは、今の命です。若い者も段々と衰え行く。でも、衰えることのない者として復活する。肉体的、精神的、そして霊的な弱さをもつ者として生まれてくる。でも、強いものに復活する。だから、テサロニケの信徒への手紙一4章13節から18節に、こう記されています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」。復活など、理解できないことです。常識は、そんな事があるはずがないというでしょう。しかし、イエスはこの後、彼の言葉が真実であることを証しするためにラザロを復活させたのです。死は、勝利者ではない。イエスが勝利者です。わたしたちが今心に浮かべている、既に世を去った主にある人々。今度会うとき、それは主の前で会うことになる。このことを覚えなさい。そして、そのことを励みとしなさい。励まし合いなさい。これが、神様の死に対する答えです。

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