永遠の命 ローマ 3:23、マタイ 19:16-30

先週すでに6章15節から23節をテキストとしてメッセージをお伝えしましたが、今日は23節だけを取り上げて、またマタイによる福音書19章16節から30節とともに永遠の命についてご一緒に学びたいと思います。永遠の命という言葉を聞いて、皆さんの頭にはどんな事が思い浮かびますか。死後の命という事でしょうか。肉体はいつか死んでしまいます。しかし、体は死んでも魂は永遠に生きている、そんな事を思い浮かべるでしょうか。先週はお盆でしたが、私の祖父はとても熱心な仏教徒で、小さい頃にはお盆になると迎え火をもって門の所に行ったものです。ご先祖様はもうこの世にはいないけれども魂は生きていて、お盆の時には里帰りするのだと祖父に教えらました。初めて聞いたというよりも、ずっと前からその事は知っているような気がしたものです。いつの時代、どこの国でも人はいつまでもあるのだと知っているのではないでしょうか。そんな意味で、永遠の命という言葉を考えたりします。しかし、今読んだローマの信徒への手紙6章23節では、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」といいます。すると、キリスト者になるともう裁きを受けることなく永遠の命を頂くけれども、信じない人には永遠の命はないという事なのでしょうか。しかし、黙示録などを読みますと、信じなかった人も死んだら無に帰するという事ではなく、みな裁きを受けなければならないと書かれています。すると、イエスを救い主と信じようが信じまいが、みな永遠の命はあるのではないかと思えます。永遠を時間の長さ、いや時間を超えたものと考えるならば、確かに命は時間を超えて永遠なのです。そういう意味では、すべての人に永遠の命があります。しかし、ヨハネの福音書17章3節には、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」とあります。ここでは、永遠の命とは命の長さではなく、質の事を言っています。ただ神様がおられると知るのではなく私の神、私の主として神様を知ること。神様がわたしを愛して下さり、いつも共にいて下さり、導いて下さる事を知り、知っているだけでなくその知識に生きることを永遠の命というのです。ですから、1+1=2と知ることと少し違います。この場合は、1と1を足すと2になると知ったところで完成です。それより奥はありません。しかし、永遠の命、神を、キリストを知る知識にはとどまる所がありません。聖書を読んだり解説書を読んだりして知識として神様の事を知ることは大切だし、そこが出発点です。ローマ書の10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とある通りです。でも、聞くことによって始まったところにとどまらずに、今日のこの出来事の中に神様がいて下さった。神様はわたしに御言葉をもって語りかけて下さった。大丈夫かしらと心配だったけれど、神様の示すところに踏み出したら新しい地平が拓けた、など信仰の風呂敷を広げればそれだけ深さを増す知識です。どのようにして永遠の命を知るのか。その事をイエスに出会ったある金持ちの青年のエピソードから聴き取りたいと思います。この出来事は三つの福音書に伝えられていますが、マタイの福音書19章16節から30節から聴き取りたいと思います。この人は、永遠の命を得るには、どんな良い事をすればよいかとイエスに問いかけます。イエスは、これこれの掟を守れといいます。彼は、それは全部守っていると答えます。するとイエスは、それでは持ち物を売り払って従って来なさいとおっしゃいます。すると、この青年は悲しみながら立ち去ったという出来事です。誠実な青年です。心から神様を知りたい、永遠の命を得たいと願っていたのです。そして、そのために、彼はユダヤ人ですから、神様の掟である律法を一生懸命に守って生きて来ました。でも、本当にこれで永遠の命を得られるのだろうか、足りているのだろうかと不安だったのでしょう。だから、イエス様に問うたのです。イエス様は、はじめ、なぜ掟を守りなさいと答えたのでしょう。掟を守ることによっても永遠の命を得ることはできるのでしょうか。そうではありません。主は、この青年の間違えを正したかったのです。この人は、行いによって救われ、神様を知る事が出来ると思っていました。ここが根本的に間違っていたのです。主は彼の根本的な間違えを知った上で、あえて掟を守りなさい、行いをしなさいとおっしゃったのです。それに気付かずに青年は、まだ欠けていますかと問うたのでしたね。行いによる永遠の命という枠組みの中にがっちりとはまっていたのです。ですから、彼にとってイエス様の言葉の前半、つまり持ち物を売るという行為、行いに焦点が合わさります。そして、それだけは出来ない事だったのです。たくさん献金や寄付をして来たでしょう。しかし、売り払う事は出来ない。なぜならお金だけは手放せない究極の頼りだったからです。この時青年が、物金を頼りにしていた事、つまり、それが偶像だった事を告白していたらどうでしょう。同じようにお金、命だったザアカイは全部手放すことはできませんでした。財産の半分を貧しい人々に施します、だまし取っていたら四倍にして返しますと言うにとどまりました。でもイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃいました。もし青年がお金を神様としていた、頼っていたと告白していたら主は満足されたでしょう。主が伝えたかったのは、どれだけものを手放すか、全部なのか、半分なのかという事ではなく、従うという事だったのです。従うというのは信頼する事です。誰でも信頼するからその人に従うのです。ある時イエスは、「誰も、二人の主人に仕えることはできない。神と富とに仕えることはできない」とおっしゃいました。富とは何もお金に限らない。この世にあるものを代表しているのです。自分は結構頭が良いかもしれない、商才があるかもしれない、事務能力なら・・と、天賦の才能といいますか、得意分野での力も富、学歴や職歴、大きな会社に勤めて何となく安心しているならそれも富、神様以外の頼るものを富と言っているのです。それらに信頼し、従うのではなく、それをやめてイエスに従いなさい、そうすれば永遠の命を得る事が出来る。永遠の命が見えて来て、味わって、体験して、ここに真の生き方があると知るようになるという約束です。それにはやはり捨てる事が伴います。金持ちの青年は、まさに財産を捨てなければなりませんでした。一文無しになる事ではありません。財産に頼ることを捨てなければならないのです。あなたも実は頼りにしているものや人があるならばそれを捨てなければなりません。そして、実は捨てた時にこそその捨てたものは生きて来るのです。才能に頼っていたとするなら、それに頼ることをやめた時、そして、主の手の中にそれを預けた時にあなたの才能は生きて来るのです。才能に限らず、お金でもいわゆる社会的な地位でも同じです。捨て方は、その頼りにしているものを捨てよう、捨てようと頑張るのでなく、イエス様の方に視線を移してそこに焦点を合わせる事です。聖書に記された神様の言葉に親しみ、その言葉を通して、神様の目で自分を、人を、出来事を見る事です。そして、その中に見えて来た神様の導きに従う、それが従うという事です。そうすれば永遠の命を知り、もっと知り、さらに知る地平が拓けるのです。それこそがダイナミックで瑞々しい生き方です。わたしはイエス様を救い主と信じてバプテスマを受けた時、「これからたくさん神様を経験しますよ」と言われました。その時はよくわからなかったのですが、主の導きに従って退職し、神学校に行った時。卒業してコロラド州デンバーで伝道したらという魅力的なお誘いがあったけれど神様の御心は自分の国で伝道する事だと後ろ髪を引かれながらも帰国した時。また、一度バプテスト教会を離れていわゆる大きな教会で一生仕えていくことも出来たけれどバプテスト教会に帰れという主の声に従った時、それぞれ神様は生きておられる、私を知って下さっている、関心を持たれ、導いて下さっている。用いようとして下さっていると神様を知る知識は深まりました。永遠の命のより深いところに進ませて頂いたと思うのです。みなさんも、すでにそのような経験をしておられるでしょう。さらにその経験のうちに生きていきたいと思います。

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