生活のよりどころ、復活 Ⅰコリント 15:1-8

今日はイースターです。イエス様が十字架にかかられ、三日目に復活された、そのことを覚える日です。キリスト者でなくてもクリスマスは知っていると思います。最近ではイースターも知られてきているかもしれません。商売をする機会にしようという事で利用されているきらいはありますが、それでも、とにかくイースターを知らなかった人がそれを知るのであればいいと思います。さて、今日はコリントの信徒への手紙一151節から8節までを読みましたが、パウロはここで福音の核心を語っています。3節を読みますと、「最も大切な事として私があなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと・・」と書かれています。パウロは聖霊の賜物について語りました。ある教会では偶像に捧げられたものを食べても良いかどうかと議論があったのですが、感謝して食べるならば汚れたものなどないと語りました。主の晩餐式の意味など、たくさんの事を教えました。でも、その中で最も大切な事、これだけは外せないメッセージは何かというと聖書に書いてあるとおり、ここで聖書とは旧約聖書の事なのですが、旧約聖書の中で預言されていた通りに救い主が来られ、私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に復活した事だと語っています。そして、これがわたしたちの生活のよりどころだと1節にあります。よりどころとはよって立つところです。基盤です。土台です。例えば、経済面を支えるよりどころは仕事、あるいは勤めている会社や役所という事になるでしょうか。心の豊かさのよりどころは地域にあってボランティアをすることとか、あるいは好きな音楽を聞く事とか絵を鑑賞する事とか、そんな返事が返ってくるかもしれません。信仰生活の土台、よって立つところはイエスの十字架と復活だということです。さらに信仰生活というだけでなく、生活そのもののよりどころがイエスの死と復活だと言われて、違和感を覚える人がいても不思議ではないと思います。日々の生活、学校で勉強したり、クラブ活動をしたり、仕事をしたり、近所づきあいをしたり、そのような日々の生活のよりどころになる教えは、上に立とうとするのでなく、仕える者となりなさいとか、人を裁くなとか、そのような実践的な教えではないかと思われるかもしれません。しかし、生活のよりどころはイエス様の死と復活だというのです。なぜ、主の死と復活が福音そのものであり、生活のよりどころなのでしょうか。それは、私たちの希望はここにかかっているからです。そのこと、私たちの希望についてお話ししたいと思います。まず、死が打ち破られたという事実から来る希望です。死が打ち破られて、だから私たちは復活するのです。簡単に言うと、もう死なない。あるいは、死んでも復活するのです。コリントの信徒への手紙一15章の50節から55節に「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」とあります。死が打ち破られたという事実から来る希望です。そして、復活の命はもう罪から完全に清められた新しい命です。神さまへの賛美は続きます。でも、もう悔い改めの祈りはありません。そして、この復活の希望は、この世に正義がもたらされる希望と直結しています。なぜなら、同じコリントへの手紙の1520節から27節に「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」とある通りです。」とあるからです。でも、この希望は将来にのみかかわることではありません。私たちの日々の生活にかかわることでもあります。また、それだからこそパウロは「生活のよりどころ」と言ったわけです。イエス・キリストの復活は、私たちが日々復活の命に生きることを可能にしてくれます。パウロは、コリントの信徒への手紙二、12章で自分に肉体的なハンディがあることを語っています。おそらく、以前いろいろな治療を試みたことがあるでしょう。癒しを熱心に祈ったことでしょう。しかし、癒されなかった。でも、ここは口語訳で読みますが、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という神さまの声を聴きました。そして、「私が弱い時にこそ、私は強い」と言うことができたのです。つまり、神様の言葉を体験した。実態となったということです。死は、弱さの最たるものです。その死に勝たしめてくださった神さまの力は今日、明日のあなたの生活の中に働きます。ただ、私たちが弱い時にです。つまり、自分の強さ、力、経験や知恵を超える神さまの力に頼る時、全身全霊で神さまにお願いするときです。その時、あなたの具体的な問題が解決されるかもしれません。しかし、パウロのように肉体的な弱さが解消されなかったとしても、「私が弱い時にこそ、私は強い」という真理。神さまは、弱さの中で支えて下さる。平安をくださるという事実を確認することができるのです。イエス・キリストの死と、埋葬と、復活は福音の核心であり、私たちの生活のよりどころです。

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