癒しにいたる信仰  ヨハネ 9:1-12

今日は、ヨハネによる福音書9章1節から12節を読みます。2節、3節の会話は圧巻です。「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業あがこの人に現れるためである。』」このイエスと弟子との会話から、多くのハンディキャップを持った方やそのご家族が、長年の問いの答えを与えられて慰めと励ましを受けたと証言するのを聞きます。今日は、この生まれつき目が見えなかった人の目が見えるようになった人自身に焦点を当てて癒しにいたる信仰とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。イエスは通りすがりだったと1節にあります。ですから、イエスはこの人に会おうとしてここに来たわけではありませんでした。目の見えない人にとっても同様で、今日、この時間にイエスが来られると知ってこの場にいたわけではないのです。つまり、いつもの場所だったのです。彼の日常生活の一こまだったのです。その日常生活の中でイエスに出会ったという事です。聖書を見ると、イエスに出会うのはいつも日常生活の現場のようです。漁師だったペテロやヨハネは、毎日見るガリラヤ湖の風景の中で、日々変わらない漁師としての生活の中でイエスに出会いました。パウロは、キリスト教徒を迫害しに行く途中で出会いました。彼にとってキリスト教徒狩りは日常の事でした。そこで主と出会ったのです。収税人のマタイもそうです。誰も非日常的な、神秘的な体験の中で主に出会ったのではありません。わたしは、そのような体験の中で主と出会う事を否定はしませんが、主に出会うために、神を信じるために神秘的な体験を求めたりする必要はなく、むしろほとんどの場合は日常の生活の中で主に出会うのだと、また、出会う事が出来るのだという事を言いたいのです。さて、この人は生まれつきの盲人でした。見えていたのだけれど病気やけがが原因で視力を失ったのではないのです。先天的なものだったのです。ですから、視力を回復する、という言葉は彼に当てはまりません。もともとあるものが回復するのです。しかし、彼の場合は、何かの拍子で奇跡的に視力を取り戻すという事はあり得ないのです。イエスは、地面につばをして、唾で土をこねてその人に目にお塗りになったとあります。弟子たちもびっくりしただろうと思いますが、誰よりもびっくりし、面食らったのは目の見えない人本人です。なにしろ見えないのですから、人が近づく気配がする、何かをしている気配がする、と思ったらいきなり目に泥を塗られたのですから。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのですから。さて、聖書は、その人は言われたとおりに池に行って洗い、目が見えるようになったと、さらっと書いています。それはむしろ、この行間をいろいろと思い巡らしなさいと言っているかのようです。この人は、目が見えるという事を想像するだけで、それがどんな事なのかを知りませんでした。何しろ一回も見る、という経験がないのですから。目が見えるとは、どんな事なのだろう。自分も、一度でいいから見る、という事をしてみたい、と思っていたのではないでしょうか。そして、毎日、物乞いをしながら人が話しているのを聞くしかない生活を送っていた彼は、メシアと呼ばれるイエスの事を聞いていたに違いありません。足の不自由な人が歩き、口の利けなかった人が話せるようになった事を聞いていたに違いありません。もしかしたら目の前に、見る事は出来ないが目の前にいる方、自分の目に泥を塗り、話しかけられた方がそのイエスなのではないか、メシアなのではないか。どうしよう。シロアムの池に行って洗うようにと言われた。そうしようか。しかし、シロアムの池はとても急な坂の下だ。目が見える人でも足元に注意しなければならない坂を下って行かなければならない。しかし、シロアムの池に行きなさいと言われた事に、「遣わされた者」という意味を持つ名前の池に行きなさいと言われた事にメッセージが込められているのかもしれない。この人は、わたしが神から遣わされた者、メシアなのだとおっしゃったのではないだろうか。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白したペテロと違って、明確な確信などはなかったようです。ですから、「はい、あなたはメシア、神の子です。お言葉ですからシロアムの池に行きます」とは言っていません。わたしには歩いている途中も、不信仰との戦いだったのではないかと思われるのです。実際に、市中からシロアムの池に行く坂を下って、こんな坂を下って行って何も起こらなかったら、と不安になったり、何も起こらなかったら自分はとんだアホだなと思ったり・・、とまあ、葛藤があったかもしれないのです。しかし、彼は進みました。苦労して、あの急坂を下って行きました。そして、シロアムの池の水、何の変哲もない水、そして、大勢の人がいる中をぶつかりながら、恐らく怒られながら、何とか進んで、言われたとおりに目を洗ったのです。するとどうでしょう。目が見えるようになったのです。彼は、確信に満ちてシロアムの池に行ったから目が見えるようになったのではありません。強い信仰、揺るがない信仰がなければ神の出来事はあなたの身に起こらないのではありません。彼は、不信仰と闘いながら、でも信仰にしがみついて、信仰対不信仰を試合にたとえるならば僅差の判定勝ちで信仰が勝ったのかもしれません。しかし、勝利は勝利です。マタイによる福音書17章20節によると、イエス様はこのようにおっしゃったそうです。「まことに、あなた方に告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんな事でも、あなた方に出来ない事はありません。」ポイントは、信仰は行動だという事。からし種ほどの小さな、見えないほどの信仰でも移れ、と言うならば、つまり、小さくても一歩を踏み出すならば、それは大きな結果につながって行くという事です。まずは、信仰告白です。皆さんの中に、イエス様を信じようかなと思いながら、もっと確信を持ってから、もっと信仰が強くなってから、と思っている方がおられるでしょうか。いつまで待っても確信に至りません。いつまでたっても信仰は強くなりません。時間が強くするのでもなければ、学びが確信を生むのでもないからです。自分が罪ある者であることを示されたなら、そしてイエスが救い主であると聞いたなら、後は、この人がシロアムの池に行ったように信じて一歩を踏み出す事、「信じます」と教会に公にする事です。それから、信じた事は本当だ、という体験を神様が与えて下さるのです。まず、一歩を踏み出しましょう。この盲人が、シロアムの池に向かって一歩を踏み出したように。

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