祝される教会 使徒 2:37-47

みなさんは、マニュアルを読む方でしょうか、あまり読まない方でしょうか。スマホやパソコンに限らず、テレビでも冷蔵庫でも、分厚いマニュアルがついています。それには、それがどのような機能を持っているのか、その機能を使うにはどうすればいいのかが書かれています。わたしは、正直あまりマニュアルを読まない方です。手元にスマホがありますが、その能力の十分の一も使っていないだろうと思います。また、もしあなたがある事についてよく知っているならばマニュアルを書く事が出来ます。妻は、毎週、食事当番の方がする事の手順を書いています。これなら良くわかる、というものです。聖書は、いわばマニュアルです。わたしたちを良く知っておられる方、すべてを知りつくしている神様が書かれた救いのマニュアルであり、教会生活のマニュアル、また、自分を最高に生きるためのマニュアルです。今日は、教会について、神様に喜ばれる教会、祝される教会とは、どのような教会なのか、どのようにしてわたしたちの教会をそのような教会にする事が出来るのかを神様に聴きたいと思います。最初に38節から40節をご覧ください。、神様に喜ばれる教会、祝される教会は、御言葉が語られている教会です。そして、神様の御言葉には二つのメッセージがある。一つは、魂の救いのメッセージです。38節にある「悔い改めなさい」がこのメッセージです。もうひとつは生活の救いのメッセージである事が分かります。40節の「邪悪なこの時代から救われなさい」がこれです。まず、「悔い改めなさい」。悔い改めるとは、反省することを含むでしょうが同じではありません。180度方向を変える事です。北に向いていたなら、南に、下を向いていたなら上を、後ろ向きに生きていたなら前向きに生きることであり、否定的に生きていたなら肯定的に生きる事です。でも、私は、ただ元気を出すとか、すべていいように考えるという意味でこのように言っているのではありません。神様の作品としてこの世に送り出され、でも、罪のために、すなわち自分を真中において事を考え、行動する生き方のために作品として生かされない、それが生き生きと生きる方法のように見えて実は全くそうではない、そのような生き方に別れを告げて、自分ではなく神を真中に、自分の欲ではなく、いわば神の欲に生きようと方向転換する事です。神の欲とは、すべての人の善を願い、行動する事です。そうだ、わたしは神様の作品なのだ。でも、罪のために輝きを失っていた。そのようなわたしに輝きを取り戻すために罪という邪魔ものを取り除いて下さった。神の命でしか取り除く事が出来ない。人として生まれた神、イエスがその命、その血を流して下さり、罪を取り除いて下さった。わたしの欲ではなく、神の欲を生きよう。神に聴き、神に従う生き方をしよう、と生き方を変えて、そのように宣言する事です。変える事、決める事、宣言する事が大切です。いつもそのように出来るかどうかは問題ではありません。ずれたらそこに戻る事、躓いたら立ち上がる事、それが大切です。それが、救われた生活の姿です。つまり、第二のメッセージ、「邪悪な時代から救われなさい」とは、全く世離れしたような生活をするとか、罪を犯さない生活をするとかいう事ではなく(それは不可能であることを聖書は語ります)、先程申し上げましたようにずれたら戻る、躓いたら立ち上がる、そのような肯定感、そのような前向きな生き方を生きる事です。神の喜ばれる教会、祝される教会となるために、第二には神の定めた順序、秩序を守る事です。それが41節と42節です。教会を建て上げるにあたり、この順序は大切です。人々は、救われるためにどうしたらいいかと尋ねました。ペテロは「罪を悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦して頂きなさい」と言いました。まず、悔い改めが来ます。そして、信じた人はバプテスマを受け、仲間に、つまり教会に加わったとあります。まず、メッセージを聴く事に始まります。とにかくバプテスマを受けなさいとか、後からちゃんと聞けばいいから、学べばいいからという事はあり得ないのです。そういう意味で、私たちの教会では赤ちゃんにバプテスマを施したり、誰でも希望するならバプテスマを施すという事は決してしません。人々は、まずペトロが語った神のメッセージを聴いたのです。そして、聖霊に導かれて、救われたいという願いが起こされ、そのためにどうしたらいいのだろうとペトロに聞いたのです。そこでの招きの言葉が「悔い改めなさい」、方向転換をしなさい、です。その時、何人の人がいたか分かりませんが、大勢の人がいたのは分かります。過ぎ越しという大切な祭りの最中でメソポタミアとかエジプト、ローマ、その他いろいろな地方から来た人たちがいます。それらの中には、聞き流した人がいたでしょう。馬鹿にした人もいたでしょう。でも、メッセージを受け入れた人がいたのです。悔い改めた人がいたのです。その人たちがバプテスマを受けました。そして、その日に何と3,000人もの人が仲間に加わった、教会に加わったとあります。この順序は大切です。ただ順番というだけでなく、本当に悔い改めた人、その時のムードで悔い改めた気分になったのではなく、真剣にメッセージを受け止めた人にバプテスマを授けます。そうしないと、その人に迷惑がかかります。教会には、また牧師には共通の誘惑があります。一人でも多くの人に加わってほしいという事です。それ自体、悪い事ではありませんし、むしろ、そのように願うべきでしょう。しかし、そのために、救われていない人、あるいは、その辺が定かでない人でも良しとするならば、神は喜ばれません。もしも、その人が救われていないのに教会に入ってしまうならば、一つの出来事が完結したような形になってしまい、本当に救われる事の大きな妨げになってしまうからです。神に喜ばれる、祝される教会になるために。第三は、メンバーが共に信仰生活をしていたという事です。42節にその事が書かれています。そこには、共同体が形成されました。いつも一緒に生活しているという事ではありません。でも、体は別のところにあっても祈りでつながり合っており、互いに互いを思い、必要であればケアをし、助けの手を差し伸べ合うグループだという事です。また、しばしば集まって神の言葉を共に聴く共同体でもあります。43節以降を見ると、彼らは物を共有したり、財産を売って必要に応じて分けあったりさえしていたとあります。つまり、生活の危機を共有していたのです。彼らは、ただでさえ貧しい人が多かったと思われます。しかも、この時代の信徒たちは伝統的な、でも形骸化して力を失った聖書の読み方をする人たち、こちらの方が数が多く、彼らから迫害を受けました。仕事につけない事もあったでしょう。そのような時に、人々は持てる物を出し合って助けあったのです。わたしたちの教会で、今そのようにする必要はないかもしれません。でも、スピリットは共有したいと思います。アメリカの神学校に行っている時、教会の人が病気になると庭の草刈りをしたり、スープを作って持っていったり、子どもを学校に送って行ったりと、いろいろな助けの手をのべていました。これも初代教会がしたのと同じスピリットだったと思います。私たちも、このスピリットを共有しましょう。今日は、少し長くなってしまいました。まとめましょう。神に喜ばれる教会の力が43節以降にあります。すべての人に恐れが生じ、多くの不思議な業としるしが行われ、日々仲間が加わったとあります。恐れが生じたとは、今まで神様に無関心だった人に関心を持つ人が出て来たという事です。不思議な業としるしとは、疲れていた人に力が、うずくまっていた人に希望が生じ、体や心を病んでいた人に癒しや平安があったという事です。わたしたちの教会の方向が示されました。このマニュアルによって、主の導きと助けにより教会を建て上げてまいりましょう。

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