神が共にいてくださるために Ⅴ 第二コリント 13:11-13

「神が共にいてくださるために」というテーマで五回目のメッセージです。そして、これが最終回になりますが、今日は「平和を保ちなさい」という御言葉について神様に聴く事に致します。平和。人は、いつも、歴史を通して平和を望んできました。しかし、一度も長続きする真の平和を経験したことがないのも事実です。何故なのだろうか。平和の礎はどこにあるのだろうか。その事を考えてみたいのです。18世紀から19世紀と時代が進み、この時代は人間の理性に無限の信頼がおかれました。未来は明るく、二度と戦争は起こらないだろう。そんな楽観主義が漂っていたそうです。ですから、1914年に第一次世界大戦が勃発したとき、人々は驚き、大きな失望を味わったそうです。平和の礎を人間の理性と善意に求めて来ました。しかし、それが崩れ去ったわけです。この時だけではなく、近代以降、人は人そのものを中心にして平和を考えて来たのだと思います。しかし、聖書は、ローマの信徒への手紙3章10節から18節にかけて「正しいものはいない。一人もいない。善を行うものはいない。ただの一人もいない。彼らは平和の道を知らない」そして、結論として「彼らの目には神への畏れがない」と言います。平和の土台を人間に期待する事について聖書はとても悲観的です。しかし、歴史を振り返る時、聖書の言葉が真実であることを認めざるを得ません。そう、聖書は、「彼らの目には神への恐れがない」という言葉が示唆するように、平和の答えは神様にあるとわたしたちに伝えるのです。ローマの信徒への手紙を読み進みますと5章1節に「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。平和を考える時、まず“神との平和”を考えなければならないと語るのです。神様との間に平和がない。なぜなら、私たちが義でないからだ。義でないというのは、神様の前に正しくない事です。それは、やれ人を殺めたとか盗みをしたとか、それももちろん正しくない事ですがもう一歩踏み込んで、そもそも殺めたり盗んだりする根本のところ、自分を神のように、つまり中心にして気に入らないものを排除する、欲しいものをとにかく手に入れようとする。なんだかんだ言って欲にとらわれてしまう自分がいる。その事を不義、罪というのです。しかし、信仰によって義とされて主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、とあります。信仰とイエス・キリストの故に神との平和があると語るのです。イエス様が、今語った神の前に正しくない、わたしたちの罪のために自らをささげて裁きを受けて下さった。それを信じる事によって神様との間の問題、あなたと神を隔てる罪の問題は取りのけられた。だから平和がある。これが神との平和です。しかし、新約聖書の他の部分を読むと、例えばコリントの信徒への手紙二の書き出しもそうですが、1章2節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように」とあります。平和があるように願うという事ですが、この手紙の読み手はキリスト者ですから、もうイエスを信じて神様との平和はあるはずではないか。何故、平和があるようにとパウロは書いたのだろうか、と思います。これは、イエスを信じて罪を赦された事による“神との平和”ではなく、“神の平和”の話なのです。神との平和、神の平和。とても似ていますが、内容は違うのです。神との平和を得ているキリスト者でも神の平和はない、という事がありうるのです。どういう事かと申しますと、私たちが神との平和を得ているだけでなく、神の平和を味わう時に、自分は神のものだ、神様は本当におられ、共にいてくださるのだということを知ることが出来るという事です。これが神の平和です。ですから、神の平和の内におる事は大切なことであり、幸いなことであり、神との平和を与えられていながら神の平和を知らないのはもったいない事なのです。神の平和の内におるにはどうしたらいいのか。「完全でありなさい」という御言葉をひも解いた時に学んだように、まず日々足を洗って頂く。つまり、日々の罪をそのままにしないで神様の前に持ち出し、悔い改める事です。信仰の友が指摘してくれることもあるでしょう。誰でも忠告されたり諌められたりするのは辛いものです。しかし、そこに勝負どころがあります。箴言19章20節には、「勧めに聴き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得る事の出来るように」とあります。同じ箴言18章24節に、「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりも頼もしい友もある」とあります。ユダヤの賢者は、いや神様は、本当の友は時に忠告してくれるものだという事を、この箴言で語るのです。また、赦すということを追い求める者に神の平和はあります。イエスは、「わたしたちに罪を犯す人をわたしたちが赦すように、私たちの罪をも赦して下さい」と祈るように教えられました。あなたが罪の赦しを神様に求めるならば、赦すのが当然ではないか、とおっしゃるのです。また、主はたとえ話で大きな負債を免除してもらいながら、それに比べればはるかに小さな借金を強引に取り立てる人を神様はお嫌いになることを伝えています。わたしたちは、赦されて神との平和を与えて頂いたのです。その事をいつも覚えましょう。それでも赦せない時、その事を神様に申し上げましょう。聖霊の助けを求めましょう。赦さない事は、その事実が、その相手の人があなたの心を支配することを許している事です。それは本当にエネルギーを奪われる事です。物事が手につかなくなってしまう事です。ですから、解放の主に、赦す事が出来るように、手放す事が出来るように祈りましょう。神の平和の内に生きるには、祈る事です。祈るとは、願い事を申し上げることも含まれますが、それがすべてではありません。言葉にしなくてもいい、神様を思い巡らす事も祈りです。そして、賛美します。感謝します。教会の事、リーダーたちの事、そこに集うした親しい人、親しくない人、そして馬が合わない人のためにも祈りましょう。主は、マタイによる福音書5章43節から48節の個所で言われました。「自分を愛してくれる人を愛した所で、あなた方にはどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶した所で、どんな優れた事をした事になろうか。異邦人さえ、同じことをしているではないか。」だから、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。あまり好きでない人、良く理解できない人のために祈る時、あなたは神様の助けによって神様の御心を成し遂げる事が出来た、すなわち神の平和の内にいるということを味わい知ることが出来ます。神の平和の内にいるために、教会につながりなさい。繋がるというのは、籍があるという事だけではありません。教会の一部として礼拝への出席はもちろん、教会の出来事に関心を持ち、祈り、かかわりなさいという事です。キリストの体の一部としてありなさいという事です。神との平和、そして神の平和。あなたは神との平和を得ていますか。もし、まだであるなら、今日、今それを得てください。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(第二コリント 6:2)です。既に神との平和の内にありますか。それでは、いつも神の平和の内にもあり続けましょう。今日、お話をした事を完全にする事ではありません。そのようにすることを求め、心がける事です。そして、不完全であっても神様の御言葉を生きる事です。数回前にお話ししましたように、私たちは途上の人です。神様は、その事をご存じであり、途上にあることを喜んで下さり、支え、導いて下さいます。

print
Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0