神が動くとき 使徒 2:1-13

今日は、ペンテコステの日です。ユダヤの世界では、過ぎ越しの祭りから数えて五十日目に祝う祭りですが、キリスト教では、この日を主が復活されてから五十日目に、教会に聖霊が下った出来事を覚える日としています。教会が生まれた日とも言われています。確かにそれは正しいと思います。以前私は、教会は主がこの世で生きておられるときに生まれたと考えていました。しかし、人が生まれるには胎児の時期があるように、教会にも胎児の時期があり、胎児の時期には人が世に生まれ出て生きていけるように肺をはじめとする内臓や骨格、皮膚などが出来るように、教会も主がおられる時に準備がなされ、胎児が生まれ出て息が入ってこの世界での生を始めるように教会も息が入って世に生まれ出た。そのような事だと思います。アダムが造られた時も土から形が作られ、神が鼻に息を吹きいれられて人となったように教会も神の息が吹きいれられて完成した。そういう事だと思います。そして、神の息が吹きいれら他出来事が、聖霊が下ったという出来事なのだと思います。さて、今日は、「神様が動くとき」という題のメッセージです。ペンテコステの日の出来事は、まさに神様が動かれ、教会を誕生させ、それからの主の御業が教会を通してなされた。その事を通して、私たちの人生の中で神様がどのように働かれるのかを考えてみたいと思うのです。今、胎児の期間と言い、それは準備の時だと申しました。イエス様ご自身にも準備の期間がありました。ベツレヘムでお生まれになり、ナザレで育ち、いよいよ神の福音を語り始めたのは30歳ころと言われています。それまでイエスは、大工として、大工と言っても家を建てたりする、私たちが想像する大工というよりも指物師というのでしょうか、家具のや農機具のようなものとを作る仕事をされていました。確かに12歳の時にエルサレムに行かれ、学者たちと論じ合って人々に驚かれたという記録はありますが、公に福音宣教の御業を始めるまでは親のもとに育ち、普通の人として生活されたのです。そして、申しましたように30歳、時いたってガリラヤ湖の岸辺に立たれ、ペテロやヨハネらを弟子とされました。それから3年ほどの間、彼らとともに生活され、旅をされました。弟子たちは、毎日人々に語るイエスの言葉を聞き、理解できない時には質問し、説明を聞きました。人々が帰ったあとでは個人レッスンと言いましょうか、一対一で教えを聞いたことでしょう。また、イエスの奇跡の業を通してイエスの神の子としての、メシアとしての権威を目の当たりにしました。その間、何度も神の国が来るのはこの時だろうかと思い、弟子同士で話したこともあったようです。でも、彼らの描く神の国はユダヤ人のローマからの解放であって、神様のご計画であるユダヤ人だけでなく、異邦人からも多くの人が罪を赦され、神のもとに帰るという事ではありませんでした。この事も覚えておいていただきたいと思います。彼らは、政治的・軍事的解放者としてイエスに期待していたのですが、その思いは粉みじんに砕かれてしまいます。主は、時の権力者によって十字架につけられ、死んでしまうのです。しかし、主は三日目に甦らされ、弟子たちに現れて死んでしまったのではない、死んだけれども復活したのだ、生きているのだという事を示されました。弟子たちの胸はときめきました。それでも、まだ神のご計画を理解しない彼らは、神の国が来るのは今ですかと尋ねています。そんな彼らに復活のイエスはおっしゃいます。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が下ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」。“待ちなさい。誕生の準備は出来た。しかし、神様の息が吹きこまれて、聖霊が下って初めて教会は生まれるのだ”という事です。聖霊が下る時、神様の時にこそことが動くのだとおっしゃったのです。そして、ペンテコステのまさにその日に、主がおっしゃったように聖霊が下り、彼らは学んだことのない言葉、巡礼者たちの母国語で福音を語り出したのです。このことから、私たちは二つの事を確認します。まず一つは、この出来事は歴史的な事実であったという事です。作り話ではなく、実際に起こったという事です。そして、もう一つは、神様の出来事というのは、いつもこのように起こるという事です。わたしたちの人生の中に神様は働かれます。どのように働かれるのかというと、このように働かれるという事です。どういうことでしょうか。まず、準備期間があるという事です。そして、その準備期間、弟子たちがそれが準備の期間だとは思っていなかったように、今、今日、明日事が起こるのではないかと思っていたように、また、ユダヤ人の国が出来るのだ、ローマから解放されるのだ、そのためにわたしはここにいるのだ、故郷を離れたのだと思っていたであろう、そのように、私たちも自分のビジョンを思い描き、今はもう準備は整ったのではないかと考えたりするのです。たとえば私はアメリカで神学校での訓練が終わり、日本に帰ってきて、伝道地のリサーチをする時には神奈川県の平塚とか、あのあたりで伝道しようと思っていました。しかし、神様は茨城県に導かれました。まだ、若かった私は近くに筑波大学や、今は名前が変わったようですが図書館情報大学がありましたので、そして、在米中は日本人留学生と聖書の学びをしたりしていたものですから学生に福音を伝えたいなと思っていたのです。しかし、なぜか既婚の女性が教会に集まられました。その中には、今私たちの教会のメンバーである人や、最近までメンバーだった方もいるわけです。説教者としての準備の間、帰国した時に描いたビジョン、でも神様はほかのビジョンを描いて下さり、その準備をして下さっていたという事です。だから、皆さんも日々ビジョンを描いて生きて下さい。その実現のために大いに勉強し、経験を積んで下さい。しかし、神様はもっと素晴らしい、あなたならではのビジョンを描いて下さっていて、そのための準備をいまして下さっているのかもしれません。そして、神様が動く時があるという事です。わたしは、自分から動かない事を学んだと思います。東京で牧者として働きたいと思って山形県を離れてまいりました。最初は、自分で動いて、必死になってチャンス探しました。しかし、チャンスと思われたものも実を結ばなかったのです。実を結んだのは、想像してもいなかった人との出会いであるとか、思いがけない道が拓けるとか、そのような出来事です。それは、神様の出来事であったと信じて疑っていません。ただ、日々の生活がその神の出来事の準備だったと、今振り返ってよく分かります。ですから、皆さんは毎日をこつこつと生きて下さい。それが、神様の出来事の準備なのです。そして、神様の時が来るのです。神様が、息を吹き込まれる時が来るのです。聖霊が道を拓き、あなたの手を引く時が来るのです。得てして、イエスの弟子たちの思い描いていた神の国と違ったように、実際の神の出来事は思い描いていた事と違う事が多いようです。でも、それは、はるかに大きな出来事、はるかに素晴らしい出来事、はるかにあなたが用いられる出来事という意味で違うという事です。ペテロが経験したのは、単にユダヤ人が解放される事を超えていました。ユダヤ人だけに限らず、すべての人が解放される道が開かれたのです。政治的、経済的繁栄も素晴らしい。しかし、永遠につながる事柄、罪の赦しと永遠の命を伝える使命を与えられたのです。世の中は、そのように評価するかどうかは知りません。そして、世の評価はあまり価値がありません。永遠につながる評価ではないからです。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」。コリントの信徒への手紙二4章18節の言葉です。また、コロサイの信徒への手紙3章1節、2節には、「さて、あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」とある通りです。神が動くとき、そのためにわたしたちの今日は備えられています。つまらない日などはないのです。そして、神様の時を信じましょう。その時こそ、神様が動かれるのです。想像を超えた、素晴らしい事が始まるのです。

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