神が見出す人   サムエル上 16:5b-13、使徒 13:22

今日は、旧約聖書、新約聖書から二か所読んでいただきました。サムエル記に記されていることは、イスラエルの初代王様サウルが失脚し、後任の王様としてダビデを神様がお選びになった事を伝えています。使徒言行録で読んだところは、パウロがピシディアのアンティオキアの会堂で語った言葉ですが、ダビデの任職について触れている個所です。神様の言葉をサムエル記では、「立って、この人に油を注ぎなさい。これがその人だ」というところを使徒言行録では「わたしは、エッサイの子でわたしの心にかなう者、ダビデを見出した」と言っています。きょうは、この“見出した”という言葉に焦点を当てて、神様が見出す人について考えてみたいと思います。見出すというと、どんな事が頭に浮かぶでしょうか。わたしは、プロ野球のスカウトを思い出します。彼らの眼力に、少なくとも向こう数年の、いや、十年くらいのチームの成績がかかっています。一年中ホテル暮らし。全国くまなく歩き回り、有望な選手を見出そうとします。チームの成績だけでなく、自分の生活もかかっていますから一生懸命です。剛速球を投げる人、いろいろな変化球を投げる人、打撃センスのいい人・・。くまなく探しまわります。神様も同じなのだろうか。そう。神様も、お用いになろう、その人を通してご自身の栄光を現そうと思う人を一生懸命に、世界中くまなく歩き回り、必死で探しておられるのです。それでは、神様は、どのような人を見出そうとしておられるのだろうか。神様に見いだされるのは、どのようは人であろうか。ダビデを通して、学びたいと思います。まず第一に、神様に見いだされる人は状況の中を前向きに生きている人です。サムエルが王様候補を探してエッサイの家に来た時、ダビデはそこにいませんでした。呼ばれもしませんでした。羊を飼っていたのです。この事から、普段からダビデがどのような者とされていたのかが分かります。者の数に入っていなかったのです。ちょっとさみしい事です。情けない事です。へそを曲げたくなるような事です。いい加減に羊を刈っておけばいいや、と思いたくなるようなことかもしれません。しかし、ダビデは、置かれた状況を受け止めて、前向きに生きていました。テサロニケの信徒への手紙一5章16節に「いつも喜んでいなさい」とあります。
それは、つらい状況を感じてはいけないとか、その中で感情的に喜びなさいと不可能な事を言っているのではありません。何かのために今がある。その事を信じなさい、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」というローマの信徒への手紙8章29節の言葉を信じなさいという事です。事実、ダビデは、その面白くない状況の中で一つの体験をします。羊が獅子や熊に襲われた時、神様の力によってその獣を倒し、羊を取り返したという経験によって神の力、助けを知りました。そして、それが、大きく役立つ時がやがて来るのです。ダビデのように劇的ではありませんがわたしにも体験があります。就職して、わたしは営業に配属されました。本当に嫌でした。苦手でした。汗水たらしたり、冷や汗をかいたりしてお客さんと話しました。しかし、そのことがだんだんと人前で話す事の苦手意識を取り除いていったと思います。説教者となって何回目かの説教からは、いつも100人を超える人たちの前で、しかもたどたどしい英語で話すというものでした。決してじょうずに話す事は出来ませんでしたが、上がったり恐れたりという事は全くありませんでした。嫌いな営業職に配属されたおかげだと思っています。神に見いだされる人。第二に神と会話する人です。神の言葉を聴き、神に語りかける人です。ダビデは祈りの人でした。いくつか挙げてみましょう。まず、サムエル記下2章1節を見ますと、「どこかユダの町に上るべきでしょうか」とあります。戦いの話なのですが、要するに何をすべきかを神様に問いかけ、「ヘブロンへ」という神の言葉を聞いたならば、それに従ったのです。イザヤの時代の人々も絶対に従うから神の言葉を伝えてくれと預言者にいました。しかし、気に入らない言葉だと従わなかったのです。しかし、結果は皆さんの想像するとおりでした。神に聴き、従う。神様は、そのような人を見出されます。導きだけではありません。サムエル記下3章39節には、手に余る部下について嘆くダビデがいます。人であれ事柄であれ、手に負えないと神様に嘆いていいのです。詩編7編2,3節には恐れの言葉があります。「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、おい迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から誰も奪い返し、助けてくれないのです」。信仰の勇士が誰も助けてくれないと泣きごとを言っています。神様は、信仰者ぶるのではなく、ありのままの弱さをさらけ出す時に応えて下さいます。詩編12編2-3節には人間不信のダビデを見ます。「主よ、お救い下さい。主の慈しみに生きる人は絶え 人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。人は友に向かって偽りを言い なめらかな唇、二心をもって話します」。そして賛美。詩編16編7節8節で「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜毎に諭して下さいます」。どんな“わたしの思い”を励まして下さったのでしょう。清く、強いわたしの思いでしょうか。全く逆です。ありのままの弱さ、醜さ、頼りなさ・・、そのような思いの私を励まして下さるのです。神が見出す人は、神とガチで語る人、本音で語り合う人です。第三に神が見出す人は悔い改めの人です。ダビデは失敗の人でもありました。その中でもバテシバとの一件は最たるものでしょう。優秀な部下の奥さんにふっと心を引かれ、王の地位を悪用して自分のものにしてしまいます。何とかそれをばれないようにしようと画策し、うまくいったと思った時に預言者が神様から遣わされ、彼の悪事は指摘されました。やばい、何とか言いつくろわなければ。彼のような失敗でなくても、何か失敗するとわたしたちは言いつくろったり誰かのせいにしたり、誰でもやっていることだと言い逃れたりしたくなるものでしょう。でもダビデは、神様の前に悔い改めました。詩編51篇、その時の言葉があります。3,4節にこうあります。「神よ、わたしを憐れんで下さい 御慈しみをもって。深い御憐れみをもってそむきの罪をぬぐって下さい。わたしの咎をことごとく洗い罪から清めて下さい」。結果から逃れさせて下さい、何とか割り引いて下さいと祈ったのではありません。それは受け止めます。ただ、お赦し下さい、清めて下さいと祈りました。神様は、セカンドチャンスを与えて下さいました。あなたは、もうセカンドチャンスも使ってしまったというでしょうか。イエスは、七を七十倍するまで、つまりどこまでも赦すとおっしゃった事を思い出しましょう。神に見いだされる人。状況を前向きに受け止め、祈り、悔い改める人でした。しかし、実は、神様はもうすでにあなたを見出したのだという事をご存じでしょうか。エフェソの信徒への手紙1章3節から5節をお読みしましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、けがれのないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。もう、選び、定められたのです。もう、神に見いだされたのです。だから見いだされた者として生きるという事を今日、語った事になります。そして、見いだされた者として生きることが、聖なるもの、けがれない者、神の子として生きることであり、それが状況の中で前向きに、祈りつつ、悔い改めつつ生きるという事だという事になるのです。神に見いだされる者はだれか。イエスを信じるものであり、すでに見いだされている。だから、見いだされた者として生きてまいりましょう。

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