神さまの悲しみ Ⅱ ローマ 2:1-5

今日のメッセージは、神様の悲しみの二回目、「神を軽んじる」というサブタイトルをつけました。4節の、「あるいは、神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」という言葉から取っています。最初は、「神を軽んじる方法」にしようかなと思いました。でも、それはさすがにと思い「神を軽んじる」にしておいたわけです。変な題だと思われると思います。ですけれども、神を軽んじるとはどういう事なのか、また、キリスト者であっても神を軽んじることがあるのではないか。そんなことを考えるためにあえてこのような題としました。実は、118節から2章の終わりまでを読み解くカギが、この言葉だと思うのです。まず、神を軽んじるとは何を軽んじることなのかを見てみましょう。4節に「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」とあります。神を軽んじるとは、神の慈愛と寛容と忍耐を軽んじることです。ここで慈愛と訳されている言葉の意味を調べますと、相手が感謝しなくても、感謝どころか無礼であっても、なおも親切であることだとありました。わたしたちは、どうも相手の出方によってそれまでの親切心が一気に冷めてしまいって怒りが出てくるなどということがあるようです。しかし、私たちがどのようであっても愛し続け、親切であり続けて下さるのが慈愛です。そして、神さまの性質そのものが慈愛だということです。わたしたちの慈愛が相対的なのに対して、相手次第なのに対して神さまの慈愛は絶対的だということです。次に寛容とは心が広くて、よく人の言動を受け入れること、他の罪や欠点などを厳しく責めないこと、とありました。しかし、神様の寛容は罪を見逃しにするということではありません。その背景にある寂しさや恐れなどの気持ちの部分に目を向けて分かろうとしてくださることです。さらに忍耐です。待ってくださるということです。すでに、私たちは神様がわたしたちに語りかけて下さっていることをずっと聴いてきました。そして、神様が私たちの応答、返事を待っておられることを知っています。神さまは待たれる神です。ペトロの手紙二、39節を読むと、当時すでにキリストは再臨するというけれども来ないではないかという人がいたようです。キリスト者の中にも、なぜ来ないのだろうと思っている人がいたでしょう。それに対してペトロは、神様は約束の実現を遅らせているのではなく一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐しておられるのだと言っています。ずっと、神様は待っておられるのです。あなたが主を信じるのも待っておられるのです。これが神さまの慈愛と寛容と忍耐です。そして、神様を軽んじるとは、この神の慈愛、寛容、忍耐を軽んじるということです。軽んじるとは、慈愛の神ならキリストを信じたらなどと言わず、みんな救えばいいじゃないかなどとうそぶくことです。寛容なら、何をしても文句はないだろうなどとうそぶくことです。ずっと待ってくれるのならまだいいだろうなどとうそぶくことです。さて、この神を軽んじるということ、それをもう少し掘り下げてみましょう。神を軽んじるとは、具体的にどんなことかということです。それは二つあります。一つは1章に書かれているように神を神としないで神ならぬものを神とすることです。偶像礼拝です。そして、偶像とは、実は自分自身を映し出しているものなのです。そのことを、これは新改訳聖書が一番わかりやすく訳してありますのでそれを読みますが、イザヤ578節で「あなたは扉の後ろに、あなたを象徴する像を置いた」と言い表されています。扉の後ろです。これは、自分の心の扉の後ろ、隠されたところにと読んでいいと思います。そこに自分を象徴する像を置いている。偶像とは、実に外にあるのではなく心の内側の隠れたところにあるというのです。偶像とは、本音の所で一番大切で、一番欲しくて、一番頼りにしているものです。一目置かれること、自慢できる才能や持ち物、それは、お金や大きな家のようなものばかりでなく、いわゆる出来のいい子供、いい学校に行っている子かもしれません。今は手に入れていないかもしれないけれどもいつか手に入れたいと願うそのようなこと。あるいは、どんなに頑張っても手に入れられないだろうなと思っていても、そのことを残念に思い、悔しく思い、それを手にしている人がうらやましかったり、あるいは憎かったら、それがあなたの、私の偶像です。それらが自分を満足させてくれる、ハッピーにしてくれると思う。それが偶像です。そして、神様こそがあなたを満たしてくださるのに偶像に思いを奪われて、縛られて、振り回されていることは神様を軽んじることです。それが一番目。このことは、先週のメッセージでお話しいたしました。そして、もう一つは2章に書かれています。もう一つの神さまを軽んじる方法は自分を義とすることです。他人を裁くことに端的に表れてきます。他人を裁くとき、実は、私たちは神様から遠く離れるのです。自分では神さまの側にいるつもりでいる。神さまだって自分に同意するに違いない。神さまだって私と同じ意見に違いない。だから神さまはわたしを支持するはずだと思う時、実は、私たちは神様と反対側にいるのです。なぜなら、人を裁きながら自分も同じことをしているからだと1節にあります。神さまには行為と意思、心とは区別がないようです。イエスさまはある時、大勢の人を前に人を殺すな、殺したものは裁きを受けるということを知っているだろうと語りました。姦淫してはならないというのは知っているだろうともおっしゃいました。その時、人々はどう感じたでしょうか。それは、自分には関係のないことだ。自分は人を殺したことも姦淫をしたこともない。だから無関係だと思ったでしょう。そして、イエスに同意して、その通り、そんな悪い奴が裁かれるのは当然だと思ったに違いありません。他人事だったのです。でも、イエスの次の言葉を聞いて、それは他人事でなくなりました。主は、実際に殺してなくても腹を立てるなら同じだ、みだらな思いで異性を見るなら同じだとおっしゃったのです。もちろんこれは刑法の話をしているのではありません。国の権力が心の中にまで入り込んできて裁くようになったら大変です。しかし、神様の前では、腹を立てるなら、手を下すようなことはしていなくてもそのずっと手前、でも同じレールの上にいるのだと言われたのです。姦淫の行為に及ばなくても同じレールの上にいるのだとおっしゃったのです。そして、神様はそのレールの上にいること自体を問われるというのです。このイエスの言葉を聞いた時、もはや他人事ではなくなりました。誰でも身に覚えがあるからです。私たちは、人を裁くことはできないのです。また、こんなことも聞いたことがあると思います。わたしたちがある人のことをあんな人だよ、こんな人だよと裁くとき、実は自分を裁いていることが多いのだと。例えば、あの人はケチな人だと裁く。ケチが気になる人は、大体その人がケチだと言います。そういえば、性的な純潔を強く言い、そうでないと見える人を声高に非難する人が性的な問題を起こしたりすることがあります。心の学問の世界では反動形成というそうです。だから、あの人のあそこがけしからん、この人のあそこがどうも気になって・・という時、そこには宝があるなどと申します。なぜ、それが気にかかるのかしらと問うていく時に、知らなかった自分を発見することがあるからだそうです。そして、発見した時にはもちろんその自分を赦す作業をします。さて、このように神ならぬものを神とするときに、また、自分を義として人を裁くときに神さまの慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのだと聴きました。ここからは、チャレンジです。どのようにすれば軽んじないことになるのでしょうか。4節にあります。悔い改めることです。悔い改めるとは、まず認めることに始まります。神でないものを最高、一番、それが欲しいと願い求めていました。偶像を慕っていました。また、自分を義としていました。自分は正しいと思っていましたと認めることです。そして、悔い改めるとは反省することではありません。もうそうするまいと心に誓うことではありません。方向を転換することです。偶像から本当の神さまへ、自分の義から神様の義へと向きを変えることです。具体的には、十字架に向きを変えることです。神さまが、慈愛をもってそんな自分をずっと見つめていてくださっていた、そうせざるを得ない私の思いも分かってくださっていた、でも、そこから何とか助けたい、その不自由さから何とか助けたいとイエスさまを送ってくださり、今までの自分のあり方をやめて神さまにお任せしようと決心するのを待ってくださっていた。そのことを感謝して受け入れることです。今あなたはここで、このメッセージを聴いています。なぜか、「神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで」とあります。神さまが悔い改めに、方向転換に導いてくださっているのです。だから今、呼びかけに応えて、神の慈愛と寛容に身を任せましょう。その時、あなたは神様の慈愛と、寛容と、忍耐を軽んじるのではなく、慈愛と寛容と忍耐の神と和解をすることになるのです。

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