神のヒーローたち ヘブライ人への手紙 11:13

わたしたちの教会では、毎年11月に召天者記念礼拝を守っています。召天者とは、既に天に召された人、世を去ったキリスト者たちです。記念礼拝とは、彼らを拝むのではなく、その信仰をしのび、記念する、憶える。そんな時にしようという意味です。今年もたくさんの方々の遺影を前にしての礼拝です。これらの写真も拝むためのものではありません。彼らの生前の姿に接し、忍ぶためのものです。さて、神様はヘブライ人への手紙11章13節から「この人たちはみな、信仰を抱いて死にました」と語り始めます。この人たちとは、アベルやエノク、ノアやアブラハム、イサク、ヤコブのことです。みな、旧約聖書にその生きざまが伝えられている人たちです。神様を信じ、従おうとする人生を歩んだ人たちです。しかし、わたしたちは、この書物が書かれた時を超えて今に至るまで、この名簿が書き続けられていることを知っています。その名簿の中に、わたしたちの愛する先輩クリスチャンたちの名前も記されているのです。ですから、13節以降に書かれていることはノアやアブラハムのみならず、彼らと同じ神を信じ、世を去ったすべての人たちについて語られていることを知ります。彼らは、「信仰を抱いて死にました」とあります。抱いて、という言葉が印象です。皆さんはいかがでしょうか。何か大切なものを抱くのではないでしょうか。ただ持つのではない。抱くのです。胸に包み込み、抱きしめるのです。人は動物、ペットを抱くこともありますが、目的や信念など、目に見えないもので大切なものも抱きます。彼らは、信仰を抱いて死んでいったというのです。死んだということは、最後まで離すことなく、いや、抱いたものは他にもあったかもしれないけれど、最後まで残ったもの、それは信仰だったというのです。詳訳聖書という聖書があります。詳しい翻訳という意味の詳訳です。それによると、彼らは「信仰に支えられて死にました」とあります。若いころは死は遠いものでしたが、この年になると現実として感じることができます。そして考えることがあります。死ぬとき、何に支えられるのだろうと。死は絶対的なもので、お金も力も役に立ちません。人は生きてきたように死ぬといいますが、お金や力に支えられて、抱いて生きてきた人は、それらが何の役にも立たないことを思い知ることになるのでしょう。神のヒーローたちは、信仰に支えられて世を去ったというのです。何かを信じていた。それが死という圧倒的な力をもち、わたしたちの誰一人として阻止することができないもの、そして恐ろしいに違いない体験。その時、信仰が彼らを支えたというのです。どんな信仰、何を信じたのでしょうか。先ほど言いましたように、人は生きてきたように死ぬ。だから、彼らは信仰をもって生きてきた、だから信仰が死の時を支えてくれたということですね。13節後半から読むと、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」とあります。何を約束されていたのでしょう。何をはるかに望み見ていたのでしょう。それを喜んでいたのでしょう。16節に答えがあります。「天の故郷を熱望していた」とあります。そして、この「地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」と、あります。彼らは、この地上で、この時間の中で生きていましたがそこが故郷、最終的な居場所ではないと公に言い表していたのです。公に言い表すというのは、どこかで口に出して宣言したとか、いろんなところで言っていたということではありません。そういう機会もあったでしょうが、むしろそのように生きた、生活したということです。彼らの中には裕福な人もいたでしょう。ノアもアブラハムも裕福な人でした。彼らに続く人々、そして、わたしたちの前に写真のある人々の中にも裕福な人はいたでしょう。しかし、それを抱いてはいなかった。それを一番にしていなかった。それを何よりも大切なもの、自分を支えるものとは思っていなかった。そういう事です。それでは、彼らは世捨て人だったのでしょうか。斜に構えて、皮肉っぽくこの世の中を見る人だったのでしょうか。そうではありません。彼らは、天の故郷、彼らが所属するところを仰ぎ見ていたのです。彼らの所属するところは神様と共にいるところでした。もちろん、神様は今、ここにも現存しておられます。しかし、わたしたちは罪のためにはっきりと神様を見ることが、知ることができない。いつも疑いや不安に揺り動かされながらいる。彼らもそうでした。アブラハムも同じでした。しかし、そのような疑い、不安の中でも故郷を仰ぎ見ていた。もう、罪の性質から解放されて、疑いもなく、不安もなく神様に対し、礼拝し、賛美するその時を、その故郷を見上げていたのです。そんな彼らを神様は、どのように思っておられたのでしょうか。なぜ疑うのか、なぜ不安を抱くのか、わたしを信じ切ることができないのかと残念に思われていたのでしょうか。憤りを覚えておられていたのでしょうか。そうではありません。16節の後半を読みましょう。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」彼らを恥とは思われなかった。こんなに愛しているのに残念だと思われなかった。むしろ、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」とあります。子どもの不祥事で学校に呼び出されたとしましょう。ちょっと恥ずかしいかもしれません。自分はなぜちゃんと育てられなかったのだろうと恥さえ覚えるかもしれません。わたしたちは、みな神様の前には不肖の子どもです。神様の前に誇ることができる人は独りもいません。恥と思われても仕方がない自己中心的な者です。そして、繰り返しになりますが、疑ったり不安になったりとヒョロヒョロした信仰しか持ち合わせない者です。それでも、神様は恥と思われない。よろめきつつも神の子イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、躓きつつもまた悔い改めの内に立ち上がって、そしていつかそのような弱さから解放されるときが来る、故郷があることを望みつつ歩んでいるからです。そして、その歩みを、この世ではよそ者、寄留者のように、仮住まいに住むようにして希望を天の御国に置く者としてくださったのは神です。そこに向かう歩みを導いてくださるのも神です。信仰とは、わたしたち人間の側の出来事でもありますが、むしろ神様の出来事なのです。そのことをフィリピの信徒への手紙1章6節では、次のように言い表しています。「あなた方の中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」岩波訳にも聴いてみましょう。「わたしはまさに次の事を確信している。すなわち、あなたがたのうちにあって善き業を始めた方は、キリストイエスの日まで、それを完成し続けるであろう、ということを。」今日も、明日も、これからずっと、この地上での生を終えるときまで神様が故郷へ向かう旅路を導いてくださるという約束です。わたしたちが憶えている信仰の先輩方は、自分の信仰が裏切られなかったことを証しています。神様は、わたしたちの歩みを導ききることを約束されています。わたしたちもこの信仰を抱いて日々を過ごし、だからこの信仰を抱いて死の時をむかえましょう。

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