神の中に生き、動き、存在する  使徒 17:22-28

今日読んだ聖書個所は、パウロがアテネの人々に語ったメッセージです。深く聴きたい言葉がいくつもありますが、その中で28節の「我らは神の中に生き、動き、存在する」という言葉を思い巡らしたいと思います。もともとこの言葉はキリスト者の言葉ではなく、ギリシャ詩人の言葉を引用したものです。しかし、パウロは、この言葉は実に真実を語っている、という事で引用したわけです。アテネの人にとっては、自分がよく知っている言葉から神様の真理を解き明かされたのですから、とてもぴったりとした感じを持ったに違いありません。さて、最初に目を向けたいのは、「我らは神の中に」という言葉です。この“中に”、口語訳聖書では“内に”と訳していますが、どこに生き、動き、存在しているのか、それは神の内にだというわけです。どこにいるのか分からないのはとても不安な事です。もう20年位前ですが、一人で八ヶ岳に登っていました。硫黄岳から赤岳、そして権現岳へとコースをたどったのですが、赤岳から権現岳の間で道に迷いました。ポピュラーなコースのはずなのに途中からあまり人が通らない道のようになり、しかもどんどん下って行きます。ついには、岸壁をロッククライムならず、クライムダウンのようにして下ります。変だなと思ったのですが、でも道を間違うようなところはなかったはずだという事で、半信半疑なのです。だんだん暗くなってきて、さすがに不安になりました。とうとう戻ってみようという事で引き返したところ、バリエーションルートに迷い込んでしまっていた事が分かりました。「ああ、そうだったのか」と、自分の場所を知った時は本当に安心しました。わたしたちはどこにいるのか、神の中にいると聖書は教えてくれます。この“中に”、あるいは“うちに”は、他に包まれて、とか、関係の中でという意味があります。神様の中に、神様に包まれて、神様との関係の中にわたしたちはあるのだ、と教えてくれるのです。人間は、人の間と書きます。人は人の中に、人に包まれて、人との関係の内にあるという意味でしょう。でも、神の中にある、という事を飛ばして人の中にある、となると、人は不安になったり、焦りを感じたりする事になります。そのままの自分としてある事のできる場所は神様の中しかないのに、それなくして人の中に置かれるならば、隣を見て、周りを見て、上とか下とか位置づけられた自分しか見えなくなるからです。この事をまず、しっかりととらえるとわたしたちの存在は動かない土台を得るのです。さて、「神の内に生き」とありました。この“生き”は、生物としての生を言っています。生き物としてのわたしたちです。神の内に生まれ、生きている。神様の内に生が支えられている。詩編139編13,14節は「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立てて下さった」とあります。わたしたちは肉の父母がいます。素晴らしい両親ならいいのですが、そうでなかったかもしれません。親の資格を問われるような人だったかもしれません。その言葉そのものでなくても欲しくない子だったとか、いなくなった方がいいというようなメッセージを受け取った事があるかもしれません。でも、それは全部間違い。わたしたちは神の内に、望まれて、素晴らしい者として生まれ、今おり、そして、そのような神との関係の中で世を去るのです。先程の詩編の15節に「あなたのみわざはくすしく、あなたはもっともよくわたしを知っておられます」(口語訳)とある通り、わたしたちはくすしい者、素晴らしい者として神様に生み出され、神様は私たちを知り尽くし、その上で愛して下さっている、その愛の中にいるのです。次に、「神の中に動き」と読みました。動きとは、まさに動く事、毎日を生活する事です。この事を忘れてはなりません。忘れる時、パンのみのために生きる事が起こります。パンとは、経済生活です。それは大切だけれど、それよりも大切なものがあるとイエス様は教えて下さいました。「人はパンのみによって生きるのでなく、神の言葉によって生きるのだ」と。今、経済が妖怪のように歩き回っています。経済成長さえすれば。景気さえよければ。収入さえ上がれば。それを基準にして政権を選び、日常を組み立てているならば、神の中に動く喜びからかけ離れた生き方になります。また、神の中に動くことを忘れると、ただただ人の中に動くという事が起こります。人の目に振り回され、評価に振り回される生き方です。ラインで既読にならないと自分の存在が否定されたような気持ちになって、それが恐ろしいという若者がいます。学食で一人で食べていると友達もいないやつなのかと思われるのではないかと恐れている人がいます。自分より知られた会社に勤めていたり、収入が多かったりすると引け目を感じる事はむしろ一般的かもしれません。でも、それは、実はおかしなことです。イエスは言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。マタイ6章33節の言葉です。言い換えると、神の中に、神様に包まれて、神様との関係を大切にして日々を生きなさい。経済を第一にしてはならない。必要はちゃんと備えて下さるから」という事です。思い煩いの気持ちが起きる時、毎日の生活が神様の中にあることを覚えましょう。フィリピの信徒への手紙の4章6節、7節に「どんな事でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」思い煩う自分を責める必要はありません。ただ、それに圧倒されてはなりません。その思い煩いを神様に申し上げなさい。そうすれば世が与える事の出来ない平安があるからと語りかけます。なぜ、そのように言えますか。わたしたちは神の中に動くものだからです。そして、神の中に存在すると読みました。存在するとは、価値ある者としてある、という意味です。この事は、既に聴いたことから来る当然の結論です。わたしたち一人一人は、神様を父・母として生まれてきました。望まれて、作品として生まれてきました。神様に包まれて、神様との関係の中に生れてきました。そして、神の中に動きます。神様に包まれて、神様との関係の中で、だから、ローマの信徒への手紙8章28節にあるように万事が益となるように共に働くことを知って生きる事が出来ます。わたしたちの一日一日は神様のキャンバスです。明るい色も使います。暗い色も使います。わたしたちは、どんな絵が描かれるのか分かりません。しかし、完成する時、それは「神の栄光」という題の絵だった事を知ります。その時になぜあの明るい色があったのか、なぜ暗い色も使わなければならなかったのか。なぜ、あそこにあのような景色が、人が描かれたのかを知ることになります。そして、神をほめたたえるのです。そのようなものとしてわたしたちが生まれ、動き、そして去って行きます。でも、なくなってしまうのではありません。生命は終わるでしょう。日々の生活も終わる時が来ます。しかし、存在は永遠に続きます。今日、わたしたちは自分の歴史を見ました。そして、わたしたちの人生というキャンバスのどこかに十字架が書かれています。イエスはあなたの神、あなたの救い主です。その事を信じますか。イエスを救い主としようと決心しますか、という問いかけが書かれています。絵、全体で最も大切な部分です。このイエスを救い主としますという告白をする時に、神の中に生き、動き、存在するという事実が実体化するのです。

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