神の愛から引き離すことはできない ローマ 8:31-39

ローマの信徒への手紙を読み進めるにあたり、最初にお配りしたプリントがお手元にあるでしょうか。もしもありましたらご覧になって下さい。この手紙全体の構成が建物にたとえられていました。玄関があり、義認の部屋があり、聖化の部屋があり、そして栄化の部屋があります。この三つは屋根が同じであるように、三つの部屋ですが一つでもあります。次にイスラエルの部屋、そして適用の部屋と続いています。玄関を除いた主要部分が三つ、つまり、この手紙は大きく分けて三つの部分からなっています。その第一の部分がこの8章で終わるのです。ですから、8章はずっと述べられてきた事のクライマックスという事が出来るでしょう。そして、8章でもその終わりの部分はクライマックスの中のクライマックスと言えるかもしれません。この手紙のテーマを一言で言うと“信仰義認”、つまり罪の赦しは信仰のみによるという事だとよく言われます。なるほど、その通りだと思います。しかし、私には“神の愛”こそテーマだということも間違いではないと思えます。信仰による義と言っても、つまり行いによるのではなく、神様が備えて下さった救いを信じて受け取ればそれでいいのだと言っても、それは神様が愛であるから、愛を持って救いの道を備えて下さったからです。だから、神様が、まずわたしたちを愛して御子キリストを送って下さったのだという事ですから、神の愛こそが土台の中の土台、柱の中の柱という事が出来るでしょう。パウロは、38節からの所でいかなる被造物も私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと高らかに歌い上げてこの手紙の第一部を終えたのにはなるほどと納得するものがあるのではないでしょうか。誰も神様の愛からわたしを、あなたを引き離せないのだ。31節以下はこの高らかな宣言に向かって語られている神様の言葉です。最初にパウロは、神様は私たちの味方だと語ります。味方になってくれる人は誰でもありがたいものです。でも、正直頼りになる味方とそうでもない味方がいるのではないでしょうか。私は小学生の時、いじめっ子に悩まされていました。何かと絡んで来るのです。そして、私にはその子をやっつける力はないのです。でも、私には心強い味方がいました。H君といいます。「H君―」と呼ぶと、彼は来てくれるのです。彼は強いのです。いじめっ子もひとたまりない事を知っているので退散します。本当に頼りになる味方でした。私をかばってくれ、しかも力が強い。だから頼りになるのです。子どもの私にとっては絶対の味方でした。でも、大人になって、もうそのいじめっ子に悩まされることはないのですが、私たちを訴える者がいると33節にあります。あなたを訴えて悩ますものです。誰でしょうか。サタンです。でも、サタンは「こんにちは、サタンですよ」と言って登場しません。どのように登場するかというと、人の背後にあって登場します。「えー、クリスチャンなのにそんなことするの」、「クリスチャンのくせに」。そのようなメッセージを伝えて来る事があるでしょう。また、「キリスト教なんか信じていると損するよ」、「神の国と神の義を第一にしろだって、右のほほを打たれたら左も出せだって、世の中そんな甘くないよ」・・・。そのような言葉を持って訴え、また不安にしようとします。さらには、自分自身の中にも訴える者がいます。こんなに罪深い者が赦されるなんてありえないのではないか。もっと立派な人にならなければ神様に捨てられてしまうのではないか。いわゆる律法主義をもって訴える声です。でも、パウロを通して神様は高らかにおっしゃいます。もし神が味方であるならば、誰がわたしたちに敵対出来ますか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。この「もし」は、そうじゃないかもしれないけれどという意味ではありません。誰かがわたしに「もし東京の人なら東京タワーの最寄り駅を知っているでしょう」という時、その意味は、あなたは東京の人だから最寄駅を知っているに違いないという意味ですね。それと同じ使い方の「もし」なのです。神が味方だ、神があなたを選んだんだ。どうしてそんな事が分かるのか。あなたのために御子イエススらも惜しまなかったではないか。ご自分の子を、あなたが受けるべき裁きを代わりに受けるようにとお遣わしになったのではないか。あなたを義とするのは神ではないか。あなたが自分で善行を積んで義とされたのではないではないか。神様があなたを愛し、あなたを恵んで義として下さったのではないか。それが神様にとって小さな事だろうか。とんでもない、神様にとってそれ以上の事はない。それ以上の犠牲はない。だったら、御子と一緒に全てのものを賜らないはずがないではないか。永遠の命も、生きるための全てのものも備えて下さるに決まっているではないか。既に言ったじゃないか。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と。そうおっしゃるのです。そう、35節に言います。艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。要するに、この世を生きる事は楽ではない。下り坂もあればまさかという坂もある。人間関係の困難、経済的な苦しみ、病気や怪我、剣とあるように暴力を伴う迫害にあっているキリスト者だってたくさんいる。Face Bookを見ていると現実に故郷を追われ、迫害され、命すら落とすキリスト者が世界中にたくさんいます。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と36節にある現実があります。それでも神様は言うのです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。」口語訳聖書では、「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」と訳しています。勝ち得て余りがある。ただの勝ちではない。圧倒的な勝ち、余ってしまうような勝ちです。私たちは、人生80年90年、あるいは100年で結論が出るのではない事を知っています。体が死んでも魂は生きる。死は終わりではない。そのことを踏まえたうえで黙示録7章13節以下を読んでみましょう。「すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』 そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。』」彼らは艱難の中を通って来ました。しかし、圧倒的な勝利者です。子羊であるキリストが彼らの牧者であり、命の水の泉に導き、涙をことごとくぬぐわれるのです。だから神の言葉はわたしたちに語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。何物も、あなた自身も、あなたの罪も神の愛からあなたを引き離すことはできない。それが神様の愛です。その愛の中にわたしたちは立っているのです。毎日、その事を生きるのです。神様の愛の中に立っている。そこに招き入れ、立たしめて下さっている神様を賛美しましょう。

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