神の愛に応える ヨハネの手紙一 4:7-21

先週もヨハネの手紙一4章7-21節を読みました。この個所から、神の愛について聴きました。神の愛は、先制パンチでした。神と私たちとの間で、愛は常に神の側から始まる。一方的な愛ではじまることを聞きました。それは動詞としての愛、行動を伴う愛でした。共にいて下さる愛でした。人生をともに歩んで下さる愛でした。さて、愛そのものについて考えてみましょう。愛とは、愛する事によって完結するのでしょうか。そうではないと思うのです。愛は表現され、伝えられ、応答されて完結するものだと思うのです。もちろん失恋のように愛が拒まれる事もあります。でも、拒まれるというのも応答ではあります。愛している事を伝えられず、従って応答もないという事もあります。でも、なぜ伝えられないのかというと、拒まれることを恐れるからであって、本心は愛に応えて欲しいのです。愛は応答を求めるものです。相互方向で完結されるものです。そして、受け入れられ、積極的に応答してくれたら本当にうれしい。わたしにも孫がいます。血はつながっていないのですが、神様の摂理による孫です。かわいくて仕方がありません。愛情を向ける時、応えてくれると本当にうれしい。朝起きて来て、最初に顔を合わせる時ににっこりして、だっこをせがんで手を広げて来られたりしたらたまりません。若い人は異性を、または同性の事もあるでしょうが愛する時に応えてくれると、受け入れてくれるととてもうれしい。神様は私たちをまず愛して下さった。それは、受け入れられようが受け入れられまいがどちらでもいいという事ではありません。神様は、私たちが神様の愛を知り、その愛に応える時本当に喜ばれるのです。そこで神様の愛は完結するのです。神様は、あなたがその愛に応えることを楽しみにして待っておられるのです。それでは、私たちはどのようにして神様の愛に応えるのだろうか。16節にこのようにあります。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます」。神の愛の内にとどまる事によって愛に応えるのです。それは、神の愛を全く疑わないというようなことではありません。信仰があるのだから何も心配ないという事でもありません。疑う事は必ずあります。心配、思い煩いは信仰生活につきものです。だから、フィリピの信徒への手紙4章6節に「どんな事でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いを奉げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあるのです。疑う事があっても、思い煩いがあっても、信仰が見えないほどにすらなってしまっても、なお神との関係の内にとどまること、踏みとどまる事、それは、立派な神様への愛のかたちです。神の愛にとどまる事は罪を犯さず、完全な生き方をする事でもありません。神様がそのようなことを求めていると聖書を読むならば、この本は恐ろしい書物になってしまいます。なぜなら、立派な生き方を求めれば求めるほど神の言葉は、そのような生き方をする事の出来ないわたしたちをあらわにするからです。神様が求めるのは罪を犯さない事ではなく、罪を告白し、日々悔い改めて生きる事です。ヨハネの手紙一の1章8節、9節に「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます」とある通りです。神の愛に応えるとは、互いに愛し合う事です。11節に、「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」とあり、21節には「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」とあります。イエス様は、「隣人を自分を愛するように愛しなさい」とおっしゃいました。マタイによる福音書19章19節です。自分を愛するとは自己愛に溺れる事ではありません。正しい理由の故に自分を愛することを言います。そして、その正しい理由というのは、先週聞いたように神がまず、先制パンチの愛で愛して下さったから、御子を遣わして下さり、御子に私たちの罪を引き受けさせて、御子において私たちの罪を罰して下さったから。ご自分の命をもって私たちを救ってくださったほどに愛して下さったからです。あなたは、そのような神様のお大切なのでした。自分を愛する理由はそれ。そして、自分を愛するようにという事は同じ理由で、同じように神様が命をもってあなたの隣人を救ってくださったのだから愛しなさいという事です。こうなると、あなたがその人と馬が合うとか合わないとか、実は嫌な人だと思っているとかいう事を超えた理由の故に愛しなさいと言われる事が分かります。そして、わたしたちは正直心の中で叫びます。「そんなの無理、出来ない!」偽善者でないならそう叫びます。そしてどうする。だから、神様に出来ない、と申し上げます。すると神様は何と言われるでしょう。コリントの信徒への手紙二5章14節に、「キリストの愛が私たちを駆り立てている」とあります。この手紙を書いたパウロは自分の内側に、生まれつきある愛によって人々を愛しているのではない事を告白しているのではないでしょうか。わたしたちの内にある愛は、最初に言った子や孫を愛する愛、恋人を愛する愛です。でも、パウロはキリストの愛が駆り立てているのだ。駆り立てられて、彼に反対するユダヤ人や異邦人、口汚くののしったり暴力をふるったりする人すらも愛するのだと告白しています。だから、そんなの無理、出来ない。その通りです。でも、そこで止まらないで、わたしもキリストの愛で駆り立てて下さい。愛しにくい人を愛する、その人の立場に立つ事、その人の益を考える事、そして出来ることをする事が出来るようにして下さいと祈るのです。教会の中でもそうです。互いに愛し合う愛は祈りによって与えられる愛です。最後に、神様の愛に応答する事には伝えるという事があります。ペトロの手紙一2章9節に、私たちは選ばれた民であり、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民だとあります。王の系統を引く祭司という言葉に注目して下さい。王とは、言うまでもなくわたしたちの王イエス・キリストです。イエス・キリストの系統を引く祭司、系統を引くというのは、イエスの役割を担わされた者、よろしくと頼まれた物、そういう祭司だという事です。祭司というのは神様と人の間に立ってとりなしをする人、神様のメッセージを伝える人です。ですから、私たちは福音のメッセンジャーとして救われたのです。お一人お一人の生きる困難さの中で潰れてしまいそうでつぶれず、倒れてしまいそうでどっこい倒れず、まいってしまいそうでしぶとく生きている事そのものがメッセージです。そのような困難さを分かち合い、祈り合い、励まし合っている教会がメッセージです。そして、その事について尋ねる人があるなら、興味を持つ人がいるならば言葉で語る準備をしておく事、語ることが苦手でも、語り切ることが出来なくても大丈夫、そのような方に教会を指し示すこと。そして、その方の救いのために祈る事、メールする事、手紙を書く事…、何であれ、示されたことを主の手となってさせて頂く。それが神様の愛に応える事になるのです。

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