神の選びによる自由の計画 ローマ 9:6-18


ローマの信徒への手紙9章6節から18節を読みました。先週も最初にお話ししましたように、聖書は色々な読み方をすることができます。学問的に読むことができます。また、実際的に、つまりわたしたちにとってどんな意味があるのかと読むことができます。この部分について言えば、そして、それは11章の終りまでなのですが、イスラエルの救済史、つまりイスラエルに対する神様の御計画について学ぶという視点から読むことができます。それは大切な学びです。それを学ぶ事によって、わたしたちはイスラエルという国をどう考えればいいのか、また、イスラエルを中心に起こっている出来事をどう意味づければいいのかを考える事が出来るからです。同時に、そのような観点からでなく、もう少し身近な視点と言いますか、わたしたち自身のこととしてどんな事を語りかけているのかという視点から読むことができます。実は、この二つは別のことではなく、互いに関連しているのですが、今日はむしろ二番目に言いました、私やあなた自身にとっての意味ということから読み解きたいと思います。イスラエルの人たちは、今日もそうですが、自分たちは神の民である。特別なんだ。なぜならば自分たちはイスラエル人だから、イスラエル人の血が流れているからと、そう考えています。血が決定する、生まれが決定する、と信じているのです。そう考えると、例えば私たち日本人にはイスラエル人の血が流れていませんから違う者だ。はっきりとは言いませんが、神様の前の立場について言えば自分の方が、イスラエル人の方が優位なのだと思っています。いわば、心という内側ではなく血によって神の民と信じているのです。この思いはとても強烈です。このような考え方は、私たちには理解できない。そのような考え方は無縁だし、日本では考えられない思いだと思われるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか。確かにクリスチャンホームに生まれたから自分はクリスチャンだと思っている人もいるようです。また、バプテスマを受けたからと思っている人もいるでしょう。長い間教会に通っているからと思う人もいるかもしれません。また、キリスト者ではない人が、あの人のご両親はキリスト者だからとか、教会に行っているから、ミッションスクール出身だからクリスチャンだという風に考える事もあるようです。しかし、そうなのでしょうか。ヨハネの福音書1章12節に、このように書かれています。「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。1章全体を読みますと、この“言”とはイエス・キリストのことであることが分かります。読み解いてみましょう。人は生まれたとあります。ここでの誕生は、2017年何月何日に、何々病院で生まれたという誕生ではありません。神の子としての誕生です。神の家族の一人としての誕生です。そのような誕生があるのです。どのようにして誕生するのだろうか。まず、血によってではないとあります。ですから、イスラエル人の血を引くからとか、親がクリスチャンだからとか、そのようなことで神の子として誕生するのではないということが分かります。また肉の欲によってではなく、とありました。どういう事かといいますと、頑張って神の子になろう。自分を鍛えて、道徳的に優れた人になって、あるいは修行をして・・と、自分の努力や頑張る力によって神の子になることはできないことを言っています。人の欲によってでもないといいます。例えばクリスチャンのご両親が、何とか子どもを信仰者にしたいという熱心を見て神様が、それではその子をキリスト者にしてあげよう、救ってあげようということはないということです。そのご両親の思いは切実だと思います。しかし、ご両親の熱心によって救われるのではない。赤ちゃんの時に洗礼を授かったから神様の子とされたのではない。また、あなたを鍛えてくれる人から受ける道徳的な訓練とかしつけとかによってでもないということです。それらは無意味で無駄な事だとは言いません。人として生きていくための良い資質をもたらしてくれるでしょう。しかし、神様の前に良し、とされるほどにわたしたちを備えるものではないばかりか全く足りないし、足りないだけでなく的外れだというのです。わたしたち自身の中には、血筋であろうと、努力であろうと修行であろうと神の子とすることのできるものは何もないのです。神の子とされるには罪の問題が壁となります。罪の問題が処理されない限り神の子にはなれません。それでは、どのようにして神の子とされるのか。「神によって生まれたのである」とあります。主権は神にあるのです。そして、この言葉は今日のテキストのローマ書9章12節と16節と響き合います。12節の後半には、「自由な選びによる神の計画」とあります。神様の自由意思によって人は神の子とされるのです。16節には、「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」とあります。すると、神の自由とは憐れむ自由のことだと分かります。神様が憐れんで下さる。7章で読みましたように、わたしたちは善を知っているしそれをしたいと思っている。しかし、それをする力がない。悪を知っているしそれをしたくないと思っている。それなのにそれをしてしまう。つまり、罪の性質があり、それに支配されている。そのことを神様が憐れんで下さる自由です。自由というのは選択です。神様は、そのような私たちを断罪し、裁く自由もありました。しかし、わたしたちに憐れむことを選択してくださった。と同時に、実は裁く自由も行使されたのです。ただ、何とご自分の御子イエス・キリストにわたしたちの罪を負わせ、御子において罪を裁くという自由を選ばれたのでした。先ほど読みましたヨハネの福音書1章12節の最初の部分。「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた」とありました。言を受け入れる、その名を信じる、つまりイエスを受け入れ、信じるとは神様がこの自由を持ってあなたを憐れみ、自由をもってイエスを裁かれたということを信じる事なのです。
血によらない、家系によらない、民族によらないということは、また過去にもよらないということです。神様の自由な憐れみは私やあなたの過去によって縛られません。人の愛が及ぶのには限度があるかもしれません。仏の顔も三度までという言葉もあります。何度も何度も裏切られ、何度正しても全く変わらなかったら投げ出したくなるということもあるでしょう。しかし、神様は違います。神の言は、約束は、自由は変わることがないのです。ペトロの手紙一1章24節、25節にこうあります。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言は永遠に変わることがない」私たちは、この神様の自由の前に立たされているのです。罪を悔い改め、神様の贈り物である罪の贖い、イエス・キリストを信じるあなたを現在にも過去にもかかわらず、生まれと関係なく、罪を赦し、神の子とするという自由の前にです。あなたがイエスを信じる信仰を教会に告白するとき、神の自由は実態となります。

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