神は決して退けない ローマ 11:1-10

今日は、ローマの信徒への手紙11章1節から10節を司会者の方に読んで頂きました。今までパウロは何回も予想される質問を掲げ、それに答えるかたちで語って参りましたが、ここでも「神はご自分の民を退けられたのであろうか」という質問をしています。とても印象的な質問だと思います。私たちも時として思うのではないでしょうか。たとえイエスを信じて救われても、場合によっては神様から退けられてしまうという事があるのではないだろうか。しばしば神様を忘れてしまう私、神様を疑ってしまう私、7章で読みましたように善が何かを知っているがする力がない私、かえってしたくない悪をしてしまう私。そのような私は、ついには退けられてしまうのではないだろうか。パウロは一言「決してそうではない」と言います。ここで直接話題になっているのはイスラエルの民のことです。申命記7章6節には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とあります。イスラエルの民は神の民、宝の民なのです。神様は彼らが神様を信頼し、神様の祝福を一杯に受けて、彼らの神こそが真の神であることをすべての民に伝える使命を与えました。しかしどうだったでしょうか。旧約聖書全体を通して彼らが神様の期待に添う事が出来なかった事、神に信頼するよりもむしろ自分の考えや経験に信頼し、また外国の力に信頼する事を繰り返したことを伝えています。出エジプト記を読むならば、圧倒的な神様の力によってエジプトでの奴隷状態から解放されて時も経たないうちに食べ物のことで不満を言い、また律法を授かるために山に登ったモーセの帰りを待てずに金の子牛を作ってそれを神として拝んだことが知られます。2節から4節にはエリヤについて述べられています。彼が預言者として生きた時代、イスラエルにはバールへの信仰がはやり、まことの神様のことが見えなくなっていました。神様のことを語る多くの預言者が迫害され、殺されてしまい、真の神様を礼拝する祭壇は壊されてしまう、そんな時代でした。エリヤは、イスラエルの神、聖書が伝える神こそが真の神であることを示したのですが、彼も命を狙われ、ついに弱音を吐きます。「神さま、もう十分です」。しかし、神様はイスラエルの民を見捨ててはいませんでした。7,000人の忠実な神の民を残しておられたのです。このようなイスラエルの背信は一度や二度ではありませんでした。苦しくなると神様を呼び求めても、それがのど元過ぎるとすぐに忘れてしまう、その繰り返しでした。神様は申命記28章36節で彼らが全てに豊かでありながら、心からの喜びと幸せにあふれて神様に仕えないならば「あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる」と、そしてその地で物笑いの種、あざけりの的となると警告しています。このことは紀元前586年にバビロニア帝国によって国が滅ぼされることで実現し、さらには、一度は回復した国を紀元70年、ローマ帝国によってふたたび滅ぼされて人々は世界中に散らされることによって実現します。しかし、それでも神様はご自分の民を退けたのではありませんでした。ローマによる滅亡から1,000年以上たった1948年、イスラエル共和国として再び国を得ることが出来たのです。今もイスラエルは完全な国だということはとても出来ません。ネタニヤフ首相は汚職の疑惑の中にいます。平和の町であるべきエルサレムには不信と憎しみ、対立と争いがあります。それでも神様は彼らを退けることはしないのです。イスラエルという国、あるいはユダヤ民族が退けられないだけではありません。ペトロはどうでしたでしょうか。情熱的にイエスに仕えていましたが、主が捕まり、偽りに満ちた裁判、最初から有罪にすることにきまっていた裁判にかけるためにとらえられた時、そして、あなたもイエスの仲間ではないかと言われた時に三回も自分はイエスなど知らないと言いました。神にかけて知らないとまで行ったのです。彼は、退けられたでしょうか。退けられませんでした。それまで、自分は大丈夫。絶対に不信仰に陥ったりしない、イエスを否定することなどあり得ないと胸を張っていた、そんなペトロが砕かれて神様に信仰を守って頂かなければ信仰者として歩むことはできないと悟る。それでも主から離れてしまう事があるだろう。そのたびに主の憐れみによって赦されなければ進むことができないと認めた時に退けられないばかりか主のさらなるごように用いられることとなったのでした。そのことは、わたしたちに何を語るのか。私たちも神様に退けられることはないということです。わたしたちはイエス様を信じる信仰のみによって罪を赦され、神様の前に義とされるけれど、そこから先は自分でその救いを保たなければならない。良い行いをし、罪を犯さず過ごさなければならない。そうでないと神様に退けられてしまう。救いを失ってしまうということではないのです。そうでなかったら、わたしたちに希望はありません。イエスを信じると罪はなくなり、全く清い者とされるのではないからです。やがて、そのような者とされますが、それは、わたしたちが世を去り、イエスにまみえる時です。イエスを信じ、バプテスマに授かり、教会に連なる者とされても完全からほど遠い信仰、ほど遠い道徳性のわたしたちです。それでも退けられることはない。その理由が6節に述べられています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」。この手紙の1章17節に「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、はじめから終りまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」とありました。これは、人の側から見た福音という事が出来るかもしれません。そして、同じ福音を神様の側から見たら、次のようになるのではないでしょうか。「福音には神の義が啓示されていますが、それは、はじめから終りまで恵みを通して実現されるのです。『正しい者は恵みによって生きる』からです」。勝手に聖書の言葉のようなものを作るなんてとんでもないことだ。その通りです。聖書に付け加えているのではありません。エフェソの信徒への手紙2章4節から6節の「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」という御言葉を私の言葉で言うとこうなるかなと思うのです。始めから終りまで恵みを通してなのです。神様とあなたを結び付ける者は恵みなのです。信仰は、それを受け取る思いのことです。主役は、あくまで神様の恵みなのです。自分で救われたり、救いをキープするのならそれは報酬です。当然受けるべきものだからです。恵みは、それを受ける資格も価値もないのに与えられることです。最後に7節から10節に触れておきましょう。選ばれたものは恵みを得たが、他のものはかたくなにされたとあります。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」とあります。さらに「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいて下さい」とまであります。何を伝えようとしているのか。恵みは強制ではないということです。いりませんと言うならば、そうなるということです。随分突き放した言い方のようですが、伝えていることはそういうことです。いりませんと言い続けるならば、そして、最終的にいらないと拒むならば恵みを受け取る心は鈍り、恵みが見えなくなると警告しているのです。コリントの信徒への手紙二6章2節には、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とあります。今日、神様はあなたに呼びかけています。私の恵みを受け取りなさい。私の民になってほしい。キリストがあなたの罪をあがなった。だから、もう隔てるものはない。信じて、わたしのところに来てほしい。恵みを受けて欲しい。そう語りかけているのです。

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