神様からはじまる ヨハネの手紙一 4:7-21

ヨハネの手紙一4章7節から21節を読みました。この個所から、今週は神様に始まる愛について、来週は、その愛にわたしたちがどのように応答するのかを読み解きたいと思います。相当昔の話になりますが、ファイティング原田というボクシングの選手がいました。現在75歳のようですが、19歳で世界チャンピオンになった人です。ゴングが鳴ると同時にコーナーを飛び出して行って先制パンチを見舞うのがスタイルでした。相手がまだ十分に準備が出来ていない間にパンチが飛んでいくという感じです。なぜ、そんな古い選手の話をしたかと申しますと、神様の愛というのは先制パンチだなと思うからです。10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」とあります。19節には、「わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです」とあります。先制パンチなのです。いきなり、神の愛が来たのです。この事をしっかりと心に頂くのは本当に大切な事です。わたしたちが何か良い事をしたから、立派な人になったから、教会生活に熱心だから…ではないのです。もちろんそうあるべきですけれども、それは神様に愛されるための条件ではなく、愛された結果としてそうあるべきだ、そうあろうではないかということなのです。その事をローマの信徒への手紙5章8節では、「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んで下さった事により、神はわたしたちに対する愛を示されました」と告げています。わたしたちがまだ罪人であった時というのは、今はもう罪人ではないと言っているのではありません。わたしたちは、この地上で、この肉体をもって生きる限り罪ある者なのですが、ここでの罪人である時、とは、わたしたちが求めたのでもない、自分を整えたのでもない、清くなろうと努力するのでもないその時に、という事です。いきなり愛して下さった。いきなり愛を示して下さった。どうしてそんなことを言えるのか。どうしてそんなことが分かるのか。キリストを見れば分かる、というのです。わたしたちが真の神を知らず、いや、自分自身の願いや欲求、もう少しはっきり言えば欲望に従って生きていた時、そのような神と無関係の生き方を罪というわけですが、そのような生き方にどっぷりと漬かっていた時に神様は御子キリストを遣わして下さったではないか。そして、御子は罪のないお方でありながら私たちの裁きを十字架で受けて下さったではないか。罰金を払って下さったではないか。その罰金は1万円でも100万円でも1,000億円でもない。そんなのは、ちっぽけなものだ。そうではなく、ご自分の命をもって、神の命をもって罪の報酬、罰金を代わりに払って下さったではないか。これによって神様の愛を知ることが出来るではないか、分かるではないかというのです。本当に、神様の愛は先制パンチです。それでは、なぜ神様の愛は先制パンチ、先なのかと言いますと、8節に「神は愛だからです」とあります。人間はどうしようもなく社会的だ、という事を聞いた事があります。どんなに人間嫌いな人であっても、でも実は人とのつながりを求めるものなのだという事だそうです。人間嫌いな人は、つながりをうまく持てなかったことへの絶望なのかもしれません。人が人とつながる事は、人として切り離せない性質だというわけです。ちょうど、魚にとって水の中で生活する事は、もう切り離せない性質と言いますか、魚であることそのものであるのと同じです。それでは神様は、と言いますと、神様にとって愛する事は、もうどうする事も出来ない御性質そのものだというのです。神はほとんどの時、愛しているとか、神はすごく愛が深いというのではない、愛そのものだというのです。それが「神は愛です」という言葉の意味です。そして、愛というのは辞書を引くと名詞と書かれているかもしれないけれども実は動詞なのだ、と聞いた事があります。愛は、愛の行動を生まざるを得ないものだという意味です。イエス様は飼う者のない羊のような状態の群衆を見て反射的に憐れんだ事が伝えられています。癒しを求める人に対して、迷うことなく「そうしてあげよう」と言われました。神は愛だからです。そうする以外、あり得ないのです。みなさんの中に、まだイエスは救い主だと公にする決心がついていない方がいます。神様は、そのあなたを愛してやまないのです。どうか、わたしの愛に応えて欲しいと呼び掛けてやまないのです。それ以外、お出来にならないのです。13節には、「神はわたしたちに、ご自分の霊を分け与えて下さいました」とあります。神様の愛は、ご自分の霊、つまり聖霊をお与えにならざるを得ないのです。信じる者に、どうしても聖霊を遣わしたいと思われるのです。ヨハネの福音書14章18節を見ますと、イエス様は「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」、口語訳では「あなた方を捨てて孤児とはしない」とおっしゃいました。一人ぼっちにしない。親の保護や導きを受ける事の出来ない子どものような事にはしないという事です。口語訳の16節でイエス様は弁護者、口語訳では助け主を送るように父なる神様にお願いするとおっしゃっています。そのお方は真理の御霊、聖霊だと17節にあります。弁護者、助け主である聖霊を送って下さる。わたしたちが罪を犯す時にキリストの十字架を指し示して、キリストがこの者の罪のために死にましたから赦して下さいと弁護して下さる方、苦難の時、困難の時、勇気を与え、知恵を与え、道を示して、また耐え忍ぶ力を与えて下さる助け主を与えて下さる愛です。つまり、神様の愛は共にいて下さる愛です。15節に神がイエスが神の子であることを公に言い表す人の内にとどまって下さるとあります。公に言い表さなければとどまって下さらないのか。その通りです。なぜなら、神様はその人の内にとどまり、いつも共にいて、助け主としてありたいと願っておられながら、その人自身が必要ありませんと断っている事になるからです。イザヤ書46章3節から4節。「わたしに聴け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時からになわれてきた。同じように、わたしはあなたの老いる日まで 白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とあります。生まれた時からこの世を去るまで、ずっとずっと、いろんな事があるだろうけれどいつの時も、あなたが元気な時も疲れた時も、強気の時も弱気の時も、確信に満ちた時も疑いの中にいる時も、いつも共にいて下さる約束です。だから、私は今日まで信じ続ける事が出来ました。本当に神様はおられるのだろうか、本当にわたしは赦されているのだろうか、神様がわたしを愛して下さっているって本当だろうか…。そんなことの繰り返しでした。たどたどしい歩みでした。でも、今神様の前にいる事が出来、メッセーンジャーとして用いられまでしているのはなぜか。神様が、いつも共にいて支え、赦し、導いて下さっていたからです。そして、そのような存在に出会う事がわたしたちにはどうしても、決定的に必要な事です。無条件に受け入れ、支えて下さる方。愛そのものである方、それが神様です。今、神様の先制の愛が迫っています。見えない、聞こえない、でも信じます。肉体の目や耳で見えない、聞こえない、でも霊の目、霊の耳であなたを見させて下さい、あなたの言葉を聞かせて下さいと祈り、信仰を告白して下さい。神様は、あなたの応答に必ずこたえて下さいます。愛なる神様は、応答を求める神様でもあるのです。

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