神様が一番言いたいこと ローマ 10:5-13


今日は、ローマの信徒への手紙10章5節から13節をお読みました。10章ほど人はどのようにして神様との関係を回復するのかを端的に伝えるところはありません。また、その方法がどのようにして伝えられるのかも語られます。今日は、前半の13節までを読んだわけです。それほど難しい事が書かれているわけではありません。読めば分かるといえばその通りです。その、読めば分かることを一緒に読むのが今日のメッセージです。最初にパウロは律法による義について述べます。「掟を守る人は掟によって生きる」と5節に書かれています。その前に「律法による義について」とありますから、この掟とは律法のことです。律法は、ユダヤ人だけに与えられたものであってわたしたちユダヤ人でない者には直接関係ありません。しかし、律法的な生き方、考え方はわたしたちにもあります。つまり、掟があって、それを守るという生き方です。「掟を守る人は掟によって生きる」とありますように、律法的な生き方にとっては掟を守るか否かがすべてであるわけです。そこに命がかかっているわけです。掟によって生きるわけです。掟を守れなければ死ぬわけです。ここで生きるとか死ぬとかいうのは生き物としての命の事だけを言うのではありません。人間同士でも“あの人とは生きた関係がある”などというように、神様との生きた関係です。律法とか掟とは違うものですが、わたしたち日本人に分かりやすいように良心としましょう。良心の声に従い切れば生きる。そうでなければ死ぬ。神様との和解はない。そういうことです。ところで、わたしたちは既に7章の7節から25節でするべき事や心に思うべきことは知っているし、そのようにしたいのだがそれが出来ない。するべきでない事や思うべきでない事、汚れた思いはもってはならないと知っているけれどもそれをしてしまう。そのような悲しい存在だと既に聴きました。つまり、律法であれ掟であれ、あるいは良心であれ、それに完全に従うことはできないのがわたしたちの現実なのです。余裕のある時はできるかもしれない。気分のいい時は心豊かかもしれない。しかし、そうでないときはしたくないことをしてしまい、汚れた思いをもってしまう者なのです。律法は神様の清いご性格を反映する良いものですが、わたしたちはそれによって、それを守って生きることはできない。それによって神様と正しい関係にあることはできない。それが5節の言わんとするところです。けれど、6節は「しかし」と言います。律法の場合とはまるで逆のことが述べられる予感がします。そして、その通りなのです。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」。つまり、掟を守ろうとする人がいて、善意に満ちた、ただ満ちているのではない常に満ちて完璧に生きようと努める人がいて、つまり律法的に生きる人がいて、「ああ、あの人は素晴らしい。きっと天に上るに違いない。神様に受け入れられるに違いない」と言ったり、逆に「あんな人は底なしの地獄に落ちるに違いない」と言ってはならない。神の御子イエス・キリストがまさに律法的に生きて、すべての律法を守り通す生涯を送られ、その義をわたしに下さったじゃないか。そして、キリストがわたしに代わって裁きを受けて下さったじゃないか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」のだ。そして、ヨハネの福音書1章によれば御言葉とはイエス・キリストその人のことです。イエス様がこられたではないか。だから、もう律法によって生きる必要はないのだ。律法を全部、完璧に守って主と和解しようなどと、不可能なことを望まなくて良いのだ。不可能なことをしようとしてできないなら、律法は呪いとなってしまう。わたしに死を宣告するものとなってしまう。そのようなところから解放されたのだ。主が全てをなして下さったのだ。これこそがパウロが、そして教会が述べ伝えている信仰の言葉だと8節にあります。そして、9節から13節までは、ここまで述べてきた事を受けての伝道メッセージです。まだ律法的に生きている人、生きようとしている人、そのように生きることができなくて神様の前に不安を抱えている人への招きです。あなたは救われます。一生懸命に律法を守ることによってではありません。誰も完全に律法を守ることはできません。そうではなく、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」のです。口で、心でとあります。この二つは別々のことではありません。口で言うけど心では違う事を思っているということはいくらでもあります。食事に招かれて行ってみるとちょっと苦手な食べ物があり、熱心に勧められたような時、これは苦手ですと言わずに「とても美味しいです」と言った方がいい場合があるかもしれません。ブティックの店員さんが、あまり似合わないと思っても「とてもお似合いですよ」という事があるかもしれません。でも、口でイエスは主と公言し、心でイエスは復活したと信じるということは、言う事が思いと一致しているということです。つまり、自分の自由な意志で、強制されることなくイエスを救いの主、人生の主、そしてイエスはいまも生きておられ、わたしの人生を導いて下さると告白することによって救われる、神様と正しい関係になるのです。それは間違いのないことです。ある人は言うかもしれません。信仰というのは心の問題だから言わなくてもいいはずだ。誰にも言わず、でも信じていればいいのではないか。しかし、公に言い表さなければならないと書かれています。公に言い表すとは、もちろん時間も場所も関係なく言わなければならない。例えば、銀座や新宿で道行く人に言わなければならないということではありません。ここで公とは教会のことです。心ひそかに信じているのではなく、教会に言わなければならない。なぜ教会か。エフェソの信徒への手紙1章23節にあるように教会とはキリストの体だからです。教会に告げるとはキリストに告げることなのです。だから教会に信仰をもったことを伝えるのです。心に信じて口で公に告白したけれども残念な結果になった。神様との和解はなかったなどと失望することはないと11節にあります。神様との関係についての保証です。何とか治ってほしいなと思う病が一向に改善に向かわないということはあるでしょう。経済的な苦境からなかなか解放されないということはあるでしょう。先週学んだように、そもそも、そのような目的を第一としてイエスへの信仰をもつことは的外れなのですが、状況が変わらないという意味ではちょっとがっかりしたとしても失望することはありません。なぜなら、実は、そのような試練と思われる状況の中でこそ神さまはご自身がおられることを伝えて下さり、平安を与えて下さるからです。神様との関係に関して失望することはありません。そして、12節にユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるとあります。当時、これを読んだユダヤ人はびっくり仰天です。ユダヤ人と異邦人、ユダヤ人の中でも律法を守る清い人と汚れた人・・、と区別の中に生きる人たちだったからです。これは、今も変わらないかもしれません。まさに、あの人は天に上るだろう。あの人は底なしの淵に下るだろうと区別します。自分はどちらだろう。天に上る方だろうか、底なし組みだろうかと見定めます。しかし、キリストが与えて下さる神様との和解、そこから始まる神様との歩みは民族、性別、家柄や育ち、貧富を超え、いわゆる芳しくない過去のある人も、現在が芳しくない人もすべてに及ぶ神の恵みなのだと高らかに宣言します。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。あなたは呼び求めるでしょうか。呼び求めるに違いありません。もう、律法に責められ、良心の呵責を感じ、自分は神様に愛されるはずがないという必要はありません。良心の呵責すら感じなくなってしまったと諦める必要もありません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

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