福音を伝える者として ローマ 15:16

先週に続いてローマの信徒への手紙15章16節から神様に聴きたいと思います。先週は、私たちが神に喜ばれる供え物となるために聖霊によって聖なるものとされたことを聴きました。今日は、視点を変えて同じことを聴こうと思うのです。視点を変えるにせよ、なぜ同じことをまた聞くのかと思われるかもしれません。でも、福音を伝えられた私たちは、今や福音を伝えるものとされた。その、福音を伝えるというのはどのような事なのかを聴くことは、私たちの、また教会の使命について確認する大切なことなのではないかと思うのです。福音は誰に、何を伝えるのだろうか。いかにしてそのことは可能なのか。そして、目的は、ゴールは。そのような問いに答えるメッセージとなります。まず、福音は誰に伝えるのだろうか。異邦人にです。異邦人とは誰のことなのか、先週すでに学びました。外国人のことであり、聖書においてはユダヤ人以外の人のことでした。民族的にユダヤ民族でない人はすべて異邦人という意味でした。しかし、当時、その言葉には一つの意味付けがあり、ユダヤ人でない人たちは神を知らなかったり、本当は神でないものを神としているのだという前提がありました。宗教という形をとる場合もあるだろうけれども、お金や健康や、これこそが私の頼りというもの、それを神としている。そのような意味での異邦人に真の神様を伝えるのが伝道ということです。かつて異邦人であった私たち。今や、民族的にはユダヤ人ではないけれども、神を知るものとされたということにおいては異邦人ではない。今度は、伝えられた真の神様を知る恵みを伝える者として頂いたのです。キリスト者として、私たちのメインビジネスは何かというと福音を伝えること、イエス・キリストによる罪の赦しを伝えることです。教会の第一の、そして唯一の使命がこれです。私たちの教会にはたくさんのウィークデー・ミニストリーがあります。その中には、祈り会のように、すぐに教会の集まりだとわかるものもありますが、手作りの会や話食の会のように趣味の会かしら、市が主催する集まりかしらと思うかもしれないものもあります。しかし、その目的はたくさんの人と知り合い、神様に愛されていることを伝えることです。もちろん、手ぐすね引いてその機会を狙っているのではありません。ふつうのお付き合いの中でそのように神様が導かれるのにお任せします。そのことは、今日の聖句の「聖霊によって」という言葉に示されています。福音は神様が伝えるのです。私たちが説得のような事をして、ではないのです。もう三十年以上前、神学校で学んでいたときに伝道学の先生がこんなことを言っていたのを思い出します。先生は、飛行機に乗る機会が多く、そのたびに隣の人に話しかけて、機会があればキリストを紹介するそうです。すでにイエス様を信じる人であったり、関心を示す人もたくさんいますが、全く興味を示さない人や、その話はあまり聞きたくないとはっきり言う人もいたそうです。先生は、自分の使命は話せるときに話すだけで、そのあとは聖霊なる神様の仕事だとおっしゃっていました。だから、伝わらなくてもがっかりする必要はないというのです。誰の領分なのか、どこまでが私の領分なのか。それをわきまえなえなさいとのことでした。それともう一つ加えてお話ししたいと思いますが、まだイエス様のことを知らない人を異邦人という言葉で理解しましたが、私たちは、その人たちに対して優位に立っているなどとはゆめゆめ思ってはならないということです。ユダヤ人の人たちの犯した大きな失敗はこの点でした。自分たちは違う、自分たちは特別だと異邦人の人たちを見下していたのです。しかし、これは神様の意図するところと全く逆のことでした。旧約聖書、申命記の23章8節を見ますと「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留していたからである」とあります。今、全く神様から離れているかもしれないがエドム人は兄弟ではないか。エジプト人を見下してはならない。あなたはエジプトに寄留していたではないか。エジプトで、あなたは異邦人だったではないかと語っているのです。私たちは、神様の一方的な恵みによって先に救っていただいた。神様のものとして頂いた。このことを覚えていなければなりません。さて、私たちの、教会の使命は福音を伝えることであるわけですが、今日の御言葉は、イエスによる救いを伝えて終わりということではないことを伝えています。イエス様ご自身、マタイによる福音書28章18節からのところで「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」とおっしゃっています。その内容は、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、命じておいたことをすべて守るように教えることだとおっしゃいました。使徒言行録2章を読みますと、ペテロのメッセージを聴いた人々がイエスを信じて終わり、皆それぞれ、それまでと変わらない生活に戻ったということでなく、仲間に加わり、使徒の教え、相互の交わり、パンを割くこと、祈ることに熱心だったと伝えられています。つまり、みんなで信仰生活を始めたのです。イエス様を信じたのだから、それでいいではないか、というわけではありません。信じたら、自分で聖書を読み、祈れば十分なのではないか、それも神様の意図することではありません。教会で、励ましあいながら、助け合いながら、支えあいながら、祈りあいながら信仰生活をすることが神様の望まれるところです。なぜか。エフェソの信徒への手紙を開くと、1章23節に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」とあります。3章21節には、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように」とあります。神様は、信じたものが教会に連なること、そこで私たちを導き、また、ある時は懲らし、つまり私たちを祝福することとされたのです。エフェソ書1章17節から19節に、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」とあります。先ほど読みました、教会こそがすべてにおいてすべてを満たしている方、すなわちキリストの満ちている場だと読んだ、その前の御言葉です。つまり、神様の、わたしたちに対して働く絶大な力、それは、キリストを復活させた、私たちの最大の敵である死にも打ち勝った力ですが、その力が日々の生活の中ではたらく、その場が教会だということ。教会に連なって主の力によって、主と共に歩む日々が拓けていくのだということです。ただ救われているだけではもったいない。ただ、罪の赦しだけを伝えるのでは足りない。自ら、教会にあって主と共なる生活を楽しみ、そしてあなたがキリストをお伝えした人が教会にあって自らを生きる、最高に生きる、そんなことが起こるのだということをお伝えすること。それが、イエス・キリストを伝えるということです。

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