福音を恥としない ローマ 1:16

今日は、ローマの信徒への手紙116節を読みました。すでに14節から18節を読みましたが、16節だけを取り上げてメッセージをお伝えしたいと思います。パウロは、福音を恥としないと語っています。なぜ、こんなことをわざわざ言ったのでしょうか。明らかに、福音を恥とする、福音を信じていると公言することを恥ずかしいと思う人がいたからでしょう。また、パウロ自身、福音を恥としていた時がありましたから、何か、恥ずかしいと思わせるようなものが福音の中にあることを知っていたということだと思います。これは、今でも同じなのではないでしょうか。正直に言って、私はキリストを信じています。福音を信じています。そして、福音を土台として生活していますと人に言う時に後ろめたさと言いますか、どんな反応を受けるだろうと気になってしまうということを経験した、あるいはいつもそのような思いになってしまうという方は意外とたくさんいるのではないかと思います。教会の中なら問題ありません。クリスチャン同士ならば、「ああ、あなたはクリスチャンですか。私もです。」などと言って意気投合します。しかし、相手がキリスト者でないとき、周り中の人がキリスト者でないときに「私はキリスを信じ、祈り、神様に守られ、主の導きに従って生きているです」ということは、ちょっと腰が引けてしまう経験はあるのではないでしょうか。これは、なぜなのでしょうか。まず、福音は説明不可能だからです。私たちは、目に見える世界、証明できる事柄だけを信じることに慣れています。もちろん、ポストモダンの時代に入って人間の理性や知性ではとらえられないものがあることが見直されてはいますが、まだまだ合理的にとらえられるものだけを真実とする考え方にとらわれています。しかし、福音は信仰によってのみとらえられるものであって、知的に理解して受け入れるという対象ではないのです。このことをコリントの信徒への手紙118節では、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものには神の力です。それは、こう書いてあるからです。『私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」と言っています。でも、人は分かること、理解することを求める。その要求に私たちは答えることができないのです。パウロがアテネで証ししたときに、死人の復活のことを述べるとある者は嘲笑ったとあります。同じことが自分にも起こるのではないか。友達に嘲笑されるのではないかと恐れるのです。それから、福音のメッセージは世の流れと異なる、いや、むしろ逆行するものなので、公言することを恐れるということがあります。世の中は、自分の力を磨いて、自分の力で、人に頼ることなく、ましてや神などに頼ることなく勝ち進んで行けと言います。弱さを見せるな。弱いことは恥ずかしいことだと言います。自分の願うところを自分の力で勝ち取ることこそが勝利だと言います。力を磨くのが悪いことではありません。努力することは必要です。でも、主にあって力を磨き、主にあって努力せよと神様はおっしゃいます。また、人間が善悪の判断の基準であり、何が価値なのかを決めるのだ。人間が主役なのだと言います。そして、自分が主役となり、自分の思うところを手に入れる人を成功者と呼びます。みんながうらやましく思います。目標にします。パウロもかつてはそうでした。自分は由緒あるベニヤミン族の出身で、育ちもよく、最高の教育を受けて、律法に熱心で…と、自分を誇る人でした。しかし、今、彼は「私は福音を恥としない。恥ずかしいとは言わない。」と言っています。キリストと出会ってそのような考え方、見方が180度変えられたのでした。今や彼は、「しかし、私自身には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対しては死んでしまったのである」と言っています。ガラテヤ書の614節です。自分が主人ではなく神様が主人であり、自分の思うところではなく神様の導きに従って、自分の力ではなく神様の力によって人生を歩むものと変えられたのです。自分の力を誇るものではなく神様の栄光を賛美する者に変えられたのです。自分が拍手されることを喜ぶのではなく、神様に拍手し、また人が神さまに拍手するのを喜ぶ者とされたのです。何によって変えられたのでしょう。もちろん聖霊によってということですが、聖霊は、パウロの体験を通して福音を恥としないことを教えられたのだと思います。そして、それはいつの時代も同じだと思います。イエス様を信じ、教会でともに礼拝し、祈り、導きを求める時、神さまはご自身が真実な方であることを必ず示してくださいます。神さまの支え、慰め、平安を経験します。その経験によって福音を恥としないことを学ばされるのだと思います。福音を恥としない。それにはもう一つの意味があります。それは、自分が福音を必要とする者であることを恥としないということです。以前のパウロでしたら、自分が福音を必要とすることを決して認めることはしなかったでしょう。なぜならば、人は自分が恥ずかしいものであること、弱いものであることを知り、認めて初めて福音に出会うからです。パウロは強いと思っていました。しかし、その強さはすぐに弱さに変ってしまうもの、人との比較の中での強さに過ぎないものであることを知りました。自分より優れていると思われる人を見ると羨ましくなり、自分をつまらないものと思ってしまう、そのような罪あるものであることを知りました。そのような弱さを知りました。あの花とこの花と大きさも色も違うけれどもどちらが優れているということはない。それぞれ神さまが特別の思いを込めて造ったものです。人も同じです。あの人と私は違う。賜物が違う。能力も違うかもしれない。しかし、それぞれが神さまの特別の愛と思いを反映してそこに生まれ、生かされているのです。そのことに生きることが福音を生きることです。パウロは、正しいことをしたいと望みながらそれをすることができず、したくないことをしてしまう、そのような思いは持ちたくないと思っていることを思ってしまうものであることを知りました。自分の中に罪があり、善をなそうという意思はあるが望む善は行わず、望まない悪を行ってしまう者であることを知りました。福音を恥としないとは、そのような自分を恥としないということです。それは、それで構わないのだと開き直るということではありません。そのような弱さを知り、認めるとき、そして神さまに赦しと助けをお願いするときにこそ神さまの力は働くことを知った。だから恥ずかしいと思わないということです。そのようなときにこそ神さまの赦しを実態として体験し、神様の愛を生で体験するのだと知ったのです。私たちはどうでしょうか。福音を恥としない。世の中の大勢の意見、考え方と違うかもしれません。しかし、十字架の言葉は私たち救われる者には神の力です。福音を必要とする自分を恥とはしない。むしろ、そのような自分を愛し、救い主キリストを送ってくださった神さまに感謝します。そのような私にキリストを送るほどの価値を認めて下さっている神さまに驚きをもって感謝します。そして、私が弱い時にこそ私は強い。自分に期待しないときにこそ神さまの力が働く。そのことを日々生きてまいりましょう。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0