私たちの本国 フィリピ人への手紙 3:20a

お早うございます。今日は召天者記念礼拝です。私たちの仲間で、すでに地上での歩みを終えられて天に帰られた方々を偲び、また、彼らの証しに耳を傾ける礼拝です。今年も、そのような方々のお写真を持ちよって頂きました。また、今ここに写真がない兄弟姉妹もおられますが、彼らの事も覚えつつ礼拝を守りたいと思います。

さて、今日はフィリピの信徒への手紙3章20節の前半から神様に聴きます。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」。口語訳聖書では、「しかし、わたしたちの国籍は天にある」、新改訳聖書では「けれども、わたしたちの国籍は天にあります」、更に文語訳では、「されどわれらの国籍は天に在り」と訳されております。いずれの訳も「しかし」、「けれども」、「されど」と、その前の所であることが語られ、それをひっくり返して、「そうではあるけれども」と語っております。それでは、この「しかし」の前には何が語られているのか、何がひっくり返されているのかというと、18節と19節にある「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行きつくところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」という言葉を受けています。それに対する「しかし」です。ここで、パウロは悲しんでいます。涙ながらに語っています。悲しい現実を見ています。その現実とは、多くの人が十字架に敵対して歩んでいるその先に滅びがあることを知らずに歩んでいるという現実です。この世の事しか考えていない、今が良ければ、楽しく人生を送ることが出来れば、老後の不安もあるけれど、とにかくそれを乗り切れれば良いと歩んでいる現実。生まれてから死ぬまで80年なり90年、100年かもしれない、その間の事だけを考えて生きているという現実です。これは、普通そうだろうなーと思うような事です。この世での人生、この地上を本国とする生き方、あり方です。本国とは何か。生活の本拠地です。ですから、ほとんどの人が、この本国を考えて生活を成り立たせること、この世の人生という期間、何十年かの期間を考えてそれを成り立たせる事だけを考えて生きているという事。それを中心にして他の事を考えて生きているということです。そのことをパウロは悲しんでいるのです。次に、十字架に敵対して歩んでいるとあります。こちらの方は、普通そうだろうな、とは思はないでしょう。ほとんどの人は、そんな事はないと言われるでしょう。もちろん明確にキリスト教は嫌い、イエスの教えは嫌だという方はおられますが、自分は別に反感はない、ましてや敵対などしていないとおっしゃる方の方が多いと思います。しかし、パウロは十字架に敵対して歩んでいる人が多いのが現実だと言って、その事を悲しみ、涙ながらに語っているのです。そもそも十字架に敵対するとは、どのような事なのか。それは、神様の愛を拒むことです。神様の愛はいらないということ、あるいは、そんなものはないと否定することです。十字架は、神様の愛が最もよく見える場所です。浅はかな私などは、何か願い事があり、それが自分の思い通りにかなえられたりすると、そこが神様の愛が最もよく見える場所、最もよく表れている場所だなどと思ってしまいがちです。もう少しキリスト教的に言いますと、神の祝福があったと思われる時、癒されるように祈っていた病が治って元気になったとか、それが一番神様の愛と恵みが見えるところだと思ったりします。しかし、そうではなく十字架こそが最も神の愛が見えるところです。しかし、考えてみれば、それは不思議な事です。十字架は、キリストが死なれたところです。血が流されたところです。夜、一人で近づくのは怖いと思う、そんな場所です。しかし、そここそが神様の愛が一番よく見える場所だというのです。なぜなら、イエスの死は、わたしたちのためであり、血は私たちのために流されたからです。その死は裁かれた死であり、血も裁かれて流された血です。神様は、わたしたちの罪を赦すために、み子イエス・キリストを世に遣わして下さいました。わたしたちの代わりに、わたしたちの罪をすべて引き受けて下さってイエスが裁かれました。ここに愛があります。しかし、この愛は自分の罪が見えない限り分かりません。分からないだけでなく、拒みます。自分は、それほど悪くはない、罪人ではない。だから神の贖いなど必要はないと思うのです。そして、そんなところに神の愛を見ろ、などと言わずに、わたしの思いをかなえてくれ、欲望を満たしてくれ、そうすれば神は愛だと信じようなどとうそぶくのです。これは、敵対なのだと神はおっしゃるのです。強い言葉です。神が、危機感を持って語られる言葉です。これが、世を本国とする人の生き方だと神は語ります。さて、聖書は、人は生まれた時からこの世を本国にする人と天を本国にする人に分かれているとは言っておりません。そうではなく、みな生まれながらの罪人、つまり、この世を本国として、この世の人生だけを現実として生きるものであり、神に敵対して歩んでいるといいます。その事をエフェソの信徒への手紙2章1節から3節では「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」と表現しています。しかし、手紙は続けて語ります。4節から9節です。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」と。この3節と4節の間にイエス・キリストとの出会いがあるのです。神様の恵みとの出会いがあるのです。苦境があったから出会う事が出来たという人もいれば、思索を通して出会う人もいるかもしれません。いずれにしても、「あー、自分は罪ある者だ。神の愛を信じないで、愛しているならなぜこんな目に合うのだ、なぜ、ものごとは私の思うようにならないのだと、自分の事ばかり考えて、まさに神様に敵対していた。それこそ罪人の姿だ。その罪を赦し、神と共に生きる者として下さるために、世を本国とするものから天を本国とするものとして下さるために神様は必要なすべてを十字架でなして下さった」と告白する時、これこそイエスと出会う時です。このようにしてイエスに出会った人、これがキリスト者です。そして、今日、記念して覚えている信仰の仲間たち、すでに彼らの本国である天に帰った仲間たち、彼らは声を大にして言っているのです。「しかし、わたしたちの本国は天にある」と。それは、自分が天を本国とする者であることの宣言であると共に、まだ世を本国としている人々への招きでもあります。彼らは、「わたしたちもこの世を本国するものだった。人生何十年かがすべてと思い、そこで幸福でありたい、あればいいと思い、そして神に敵対して歩んでいた。けれども、“しかし”があった。方向転換があった神の愛を知らなかった私、自分の罪が見えなかった私がそれを見て、十字架こそ神の愛が見えるところだと知った。それからわたしは、天を本国として歩む者となった。神と共に歩ませて頂く者となった。その行きつくところは天の御国だった。あなたも、ここに来ないか。滅びへの道を歩んではならない。あなたもここに来る道を歩みなさい。人の命は、体が生きている間だけではない。地上で生きている間だけを考えて生きる生き方は不十分だ。」と語りかけています。今日は、神との出会いの日です。ぜひ、イエス・キリストを信じて天を本国とする歩みを始めて頂きたい。また、すでにキリストを信じる兄弟姉妹。世の魅力に囚われる事なく、本国に目を向けて共に歩もうではありませんか。

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