美しい足音 ローマ 10:14-21


ローマの信徒への手紙10章14節から21節を読みました。この個所は、私たちに決定的な意味のある個所です。なぜなら、私たちは何者か、生きる意味は何なのかを知らせているからです。何のために生きているのかがわからずにいた人が、キリスト者となり、この個所から生きる意味を見出した話はたくさんあります。というよりも、すべての人がこの聖句から自分の人生の意味を見出すのです。その出発点となる言葉は15節です。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。ここです。私たちは、遣わされて今、今日、ここにいる。遣わすと訳されている言葉は、使徒という名詞の動詞形です。使徒パウロの使徒です。この言葉の意味は、ある人にあることを託されて送られることです。今、このメッセージを準備しているときに宅急便が荷物を届けてくれました。ある意味で彼らは使徒です。荷主から荷物を渡され、荷受人の人に届くようにと遣わされてきたからです。宅急便の方は、トラックの荷物を好き勝手に配るのではありません。確実に荷受人に届くように配って初めて仕事になります。私たちは神様から遣わされた使徒です。託されたものを、相手先に届けるようにと遣わされたのです。神様は、〇〇教団とか〇〇連盟というようなキリスト教会の連合体や交わり団体に託したのではありません。牧師や宣教師だけに託したのでもありません。教会に託しました。そして、教会とはそこに集う一人一人、牧師や宣教師ももちろんですが、そうでない人も含めて一人一人のことを言います。だから、今、ここで共に礼拝をささげている私たち一人一人が遣わされているのです。先程、宅急便屋さんは荷主から荷物を託されて受取人のもとに遣わされていると申しました。それでは、私たちは神様に何を託されて誰に遣わされているのでしょうか。託されているものは「良い知らせ」と15節にあります。良い知らせとは福音のことです。17節の言葉でいえばキリストの言葉のことです。言葉とはメッセージのことで、必ずしも口から出る言葉に限りません。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と15節にありました。私たちは足で歩みます。足でどこかに行きます。マタイによる福音書28章19節には「あなた方は行って」とあります。英語の聖書では、Go ye thereforとあります。命令形です。行きなさいというのです。この言葉に触れられてある人は宣教師として献身し、実際に外国に、地の果てまでも行く人がいるでしょう。でも、この言葉は彼らだけへの言葉ではありません。「あなた方」、つまり私たち一人一人、みんなへの言葉です。毎日の歩みの中で、生活の中で福音を携えていきなさいということです。メッセージを携えて行きなさいということです。そのメッセージは、解放のメッセージです。罪からの解放、罪の結果である死からの解放です。イエスキリストが裁きを引き受けてくださった。代わりに受けてくださった。死んで、葬られ、蘇られたという解放のメッセージです。それは、自分の解放のメッセージです。聖書には目立ちたがり屋のペテロが登場します。怒りっぽいヨハネがいます。お金大好きのマタイが登場します。なぜ目立ちたがるのか、怒りっぽいのか、お金大好きなのか。皆、自分への囚われからです。自分にOKを出したい。ここに居ていいのだ。生きる価値があるのだと証明したい。私たちは、みなそのような欲求を持っています。そのことを人と自分に証明しようとするのです。でも、証明できただろうかと不安です。また、証明することをあきらめてしまう人もいるでしょう。神様から託されたメッセージは、そのことからの解放のメッセージです。神様の目に、あなたは高価で貴いというイザヤ書43章4節のメッセージ、あなたは神様によってワンダフルなものとして造られているという詩編139編14節のメッセージです。自分からの解放は生き方の解放につながります。ペテロの目立ちたがりは大胆な説教者として用いられました。怒りっぽいヨハネは愛の人と変えられるとともに不正に対する怒りを正しく表す人となりました。マタイのお金に細かい几帳面さは福音書記者として用いられました。皆、持ち味を自分証明のためでなく、人に勝るためにでなく、神様に捧げて用いて頂くという生き方に変えられました。そのメッセージを託された私たちはどのようにしてそれを伝えるのだろうか。先程、生活の中でと聴きました。Go ye thereforeと聴きました。生活の中で、そのように生きることによってです。罪が赦された者として神様と生きること。つまり、喜びや楽しみだけでなく、不安や怒り、怖れなどの気持ちを神様に聴いていただくことです。それが何になるのかといわれるでしょうか。フィリピの信徒への手紙4章6節に「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ求めている者を神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。思い煩いに限らず、すべての感情を神様に打ち明けるとき、神の平安がある。つまり、精神的必要が満たされ、整えられるということです。神様の約束です。ですから、真理です。信仰は聞くことに始まり、しかも聞くことはキリストの言葉を聴くことによってはじまると17節にあります。キリストはどのような言葉を語られたでしょうか。ガリラヤ湖の湖畔で、ペテロやヨハネに「わたしに従ってきなさい」といわれました。主と共なる日々への招きの言葉です。十字架の上で、彼は「完了した」といわれました。私たちが神様のもとに回復されるためのものはすべて成し遂げられたということです。ですから、私たちは大胆に神様のもとに、恵みの御座に近づくことができます。その十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」といわれました。とりなしの言葉です。三度イエスを知らないと言って裏切ったペテロに「わたしの羊を飼いなさい」といわれました。牧師として働いてくれという意味です。愛に満ちた赦しの言葉です。そのような言葉に支えられて生きるあなたの生き方がそのままメッセージを伝える働きなのです。誰に遣わされているのか。すべての人に、です。具体的には、あなたの周りの方々、日々接する人々です。一つ、覚えなければならないのは、宅急便とちがって必ずしも受け取られるとは限らないということです。マタイによる福音書7章13節には「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い」とあります。神様のメッセージを受け止める人は必ずしも多くないということです。一方、思いがけない人、受け取らないだろうなと思われる人が受け取ることもあります。ローマ10章20節に「わたしは、私を探さなかった者たちに見いだされ、私を尋ねなかった者たちに自分を現した」とある通りです。私たちの責任は、日々、福音を生きることです。そのことをもって伝道すること、また、機会があれば言葉でイエス様のことを伝えることです。そこから先は、聖霊様の領域です。ですから、受け取ってもらえないことは残念ですが、あなたの責任ではありません。受け取って下さったら感謝で嬉しいですが、自慢するようなことでもありません。多くの方は広いほうの道を選ぶ。でも、21節に「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とあるように、神様はあきらめてはおられません。その神様の働きを担わせてくださる恵みを生きるのが私たちです。

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