義 平和 喜び  ローマ 14:17

「イエス・キリストを信じてクリスチャンになったらどんな得があるのですか?」あからさまにそう聞かれることはないかもしれません。でも、私たちがキリスト者でなかった時、そのように聞かないまでも、心の中でそう問うていたのではないでしょうか。それは当然の問いだと思います。神社に行く時にも、ましてや何らかの信仰に興味を持った時など、おおよそ誰でもどんな得があるのだろうと考えるのではないかと思います。そして、その時の“得”というのは、病気が治るとか、交通安全とか、家内安全であるとか、あるいは人間関係が良くなるとか、そのようなことでしょう。それは、人の切なる願いであって卑しい願いでも何でもないと思います。イエス・キリストを信じるとどんな得があるのだろうか。何を得られるのだろうか。いや、キリストを信じるとは天地を創造され、私たちを愛して下さり、罪を赦して下さる神様を“礼拝”するためであって、自分が何かを得るとか得するなどと言うのは怪しからんことだと怒られるかもしれません。それも正しい。でも、平たく言ってそんな高尚な思いから神様を信じる人はあまりいないのではないかと思います。やはり最初は、どんな得があるのだろうというところから始まるのだと思います。イエス様の弟子たちだって、そのような発想からイエスに魅力を感じたのです。みんな、ローマ帝国の支配から解放してくれる英雄は、この人なのではないかと期待したのです。政治的に、経済的に開放してくれる事をイエスに期待したのです。「主よ、神の国が実現するのは、この時なのですか」という彼らの問いはそのことを表しています。群衆はパンを与えられて、もっと与えてほしい、つまり経済的な繁栄をもたらす事をイエスに期待しました。そして、「わたしが命のパンだ、このパンを食べるならば永遠に生きる」というイエスの言葉を聞くと憤慨して去って行ったのでした。そして、今日の聖句は、神様がそのようなわたしたちのレベルに合わせて語って下さっているようです。「神の国は、飲み食いではなく」と言います。飲み食いとは今まで述べてきたような経済的な利益や健康、病気の癒し、学業成就や就職、人間関係がうまくいくこと、もしかしたらうまくいかない人間から無関係になることなど、おおよそ自分がこうあればいいと思うもの、持っていればいいなと願うものを表しています。つまり、ご利益宗教が約束するものです。私たちは、そのような宗教なるものとイエス・キリストを信じる信仰は違うと胸を張ったりするかもしれませんが、ややもすると私たちだって自分勝手なああなればいい、こうなればいい、あれがあればいい、というような祈りばかりしているのではないかと反省する必要があるかもしれません。天地を創造された本当の神様を信じること、イエス・キリストを救い主と信じることによって得られるものは、飲み食いではない。それでは何だろうか。聖霊によって与えられる義と、平和と、喜びだと明確に語ります。義と、平和と、喜びです。この三つは、三つで一つ、一つで三つ、いわば三位一体です。実態は一つ、そして一つの実態に三つの面があるという事です。そして、その三つの面がそれぞれに関連しているという事です。そのことは、今日のメッセージを最後まで聞いて下されば納得していただけるのではないかと思います。最初に、義です。神の国は、イエス・キリストを信じて得する事は義だという事です。義とは、神様にそれで良しとされる事です。私たちは、正直になるならば人に言えない思いや願望があるものです。今までを振り返っても、出来れば消しゴムで消したい行いや心の中の出来事があるものです。恥ずかしくて思い出すのも嫌な事があるものです。憎しみかもしれません。ひがみや嫉妬かもしれません。殺意ですらあるかもしれません。私たちは、それらを見てよくないことだといい、恥ずかしいことだと思います。しかし、そもそもなぜ憎んだり恨んだり、ひがんだり嫉妬したりするのかと言えば、自分の思い通りにならないからです。人が邪魔になって憎しみをもったり、自分のほしいもの、目に見えるもの金であれ、または人の評判であれ、自分が欲しているものを既に人が持っているのを見るとひがんだり嫉妬したりするものです。つまり、自分の思いをすべてかなえたい。人の上に立ちたい。つまり、それは神になりたいという事です。そして、自分を中心にすること、神にすることを聖書では罪と言います。そんな思いは当たり前だというかもしれません。誰でもそのような欲望をもっているという意味では当たり前です。イザヤ書59章1節と2節には、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」とあります。神様は欲がはらんで罪となり罪は死をもたらすと警告しているのです。ですから、罪は当たり前で済ませる事の出来ない大きな問題です。わたしたちと神様を隔てる壁であり、だれもこの壁を乗り越えることは出来ないのです。しかし、神様の方で、この壁を壊して下さった。聖書のメッセージのポイントはここです。マタイの福音書27章51節を見ますと、イエスが十字架で息を引き取られた時、神と人を分けることを象徴している神殿の幕が上から下まで裂けたとあります。上から下です。つまり、神様自らがこの隔ての幕を切り裂かれたのでした。これは、イエス様が私たちの罪を負って裁きを受けて下さり、その故に神とわたしたちの隔てはなくなった、義とされた、という神様のメッセージでした。イエス様を信じて得すること、それは、罪が赦されること、義とされる事です。次に平和とあります。義の結果が平和です。神と我の平和です。北朝鮮の情勢が今、盛んに報道されていますが、38度線という言葉をご存じだと思います。韓国と北朝鮮を分ける北緯38度の線です。目には見えませんが、この線が二つの国、二つの体制を分け隔てており、お互いに休戦中ではありますが戦いの状態です。平和がありません。この38度線がなくなる時は、平和が来た時です。二つの国の人々は自由に行き来し、言葉を交わし、一緒に仕事をし、歌を歌い、踊るかもしれません。平和が来たからです。神様との間に義がもたらされた時、先程申しました幕が裂かれたように、私たちと神様の間を隔てる目に見えない、でも決して超える事の出来ない壁は壊されました。平和が来たのです。自由に神様に近づき、話し、つまり祈る事が出来ます。神様は私たちを宮として心の内に住んで下さいます。私たちを慰め、励まし、また日々の歩みを導いて下さいます。平和がもたらされたからです。国と国の平和は恒久的である保証はありません。でも、神との平和は違います。事実、私たちはすぐに協定違反をしてしまいます。毎日違反をしてしまいます。イエスは、私たちに新しい掟として愛し合う事を命じられました。しかし、聖書が書かれている時代にあってもユダヤ教の伝統を守りながら信仰生活をしたいクリスチャンと、そのような伝統からは自由な信仰生活をしたいクリスチャンとの間に対立がありました。その後の歴史を見ても残念ながらキリスト教世界は愛に満ちていたというわけではありません。そのことは残念なことですけれど、悔い改めなければならない事ですけれど、その故に神様との平和がなくなることは決してありません。義、平和、そして喜びです。この喜びはすでにお分かりだと思います。私たちの善行によってではなく、修行によってではなく、勿論おまじないのようなものによってではなく神様のとこしえの恵みによって、善意によって義として頂いた喜び。イエス様が罪を引きうけて下さり、死んで下さり、そして甦らされた。罪の赦しのための事は全部神様がなして下さった喜びがあります。そして、その赦しを失ってしまう事は決してないという約束への喜びです。安心して、何度つまずいても神様のおきてに立ち返り、神と人に仕えることのできる喜びです。生きるのには不安な事がたくさんあります。生きるのは簡単な仕事ではありません。でも、いつも主が支えて下さり、導いて下さり、「大丈夫だよ」と言って下さり、そして本当に大丈夫である喜びです。「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と、平和と、喜びなのです」。でも、飲み食いはどうなのだろう。衣食足りて礼節知るという言葉もあるではないか。何といっても、命を保つためには飲み食いが必要ではないか。でも大丈夫。イエス様はおっしゃいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。マタイによる福音書6章33節の言葉です。25節を読むと「何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体の事で何を着ようかと思い悩むな」とあります。つまり、これらのものと言うのは飲み食いに関する事、衣食住に関する事です。だから、今日の御言葉は神様は飲み食いについては我々は神様に期待することは出来ないと言っているのではないのです。それらは大切。でも、人間の本質的な必要ではない。とても必要、でも、それ以上に必要なものがある。それが義と、平和と、喜びだ。飲み食いの事?もちろん神様は、私たちがそれを必要としている事をご存じだ。だから、神の国を第一にしなさい。義と、平和と、喜びを第一にしなさい。そうすれば、それらのものはそれに添えて与えられる。そう約束して下さっているのです。

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