自分をどのように評価するか ローマ 12:3

先々週、ローマの信徒への手紙の12章に入りました。その時に、建物でいえば1章から11章が一階でそれ以降が2階にあたると言いました。神様の恵みにより、信仰によって罪が赦された。義とされた。これが1階。「こういうわけで」と12章が始まりました。ここからが2階です。そして、2階の上り口と言いますか、部屋に入る前にあたる部分が1節と2節です。「神の憐れみによって進めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」パウロは、ずいぶん回りくどくというか、慎重に言葉を運んでいるようです。2節で、なすべき礼拝を説明して、それは神の御心をわきまえることだと語ります。そして、3節以降、日常生活のこの場面、あの場面をあげて、具体的にこのように生きることがいま言ったなすべき礼拝の形なのだよと教えてくれるわけですが、その具体的な内容に入る前に、彼は自分に与えられた恵みによってあなた方一人一人に言うのだと語ります。パウロは神様の言葉を語ることは自分に与えられた恵みだと言っています。なるほど、パウロは、コリントの信徒への手紙一15章9節、10節で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日の私があるのです」と言っています。神の恵みによって説教者とさせて頂いた。牧師として頂いた。これは三度、主を知らないと言った重荷を持つペトロが「わたしの羊を飼いなさい」つまり、牧師としてあなたを用いたいと言われた時にも感じた事でしょうし、二人に限らずすべての説教者、牧者が抱いている思いです。そして、パウロが自分に与えられた、この恵みによって言うという時に、自分はゆだねられている神様のメッセージを語るのだ、それ以外の何ものでもない、神様の言葉を伝えるのだという意味が込められていたと思います。説教の御用に立たされている者にとって、背筋が伸びる思いで聞くべき言葉です。神の言葉を語らなければなりません。大胆に語らなければなりません。テモテへの手紙二4章3節に「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合のよい事を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳をそむけ、作り話の方にそれていくようになります」とあります。世の中の状態ではありません。いわゆるキリスト教の世界で、教会の中で、クリスチャンと言われる人たちの中にこのような傾向が生まれると言っています。温かい言葉、包む言葉、何でも赦される、それだけを語る。ローマの信徒への手紙で言えば一階の部分は語られるが2階の部分は語られない。説教者がこういうことを言えばみんな喜ぶのではないか、こんなことを言ったら恨まれたり人気を失ったりするのではないかなどと考えてはならないのです。先程のテモテの手紙の続きには、「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」とあります。厳しい言葉です。正直、しり込みしそうな言葉です。でも、語らなければならない。同時に聞く者は、聴かなければならない。私にも経験がありますが、痛いところを突かれる。それに耐えなければなりません。牧師が自分を狙い撃ちにして言ったのではないかなどと思ってはならないのです。少なくとも私は、説教台から個人を狙って語ったことはありません。でも、そのように感じたならば、不快を感じたならば、それは当たっているのでしょう。神様に痛いところを突かれたのです。そこで、逃げてしまったり、説教者の悪意のせいにしてしまうのは簡単ですが、一段深い交わりに招いて下さっている神様を退けることになるのです。「わたしに与えられた恵みによって」とパウロが言った時、彼は覚悟をもってこれから語ることを言おうとしているのです。そして彼は、「あなた方一人一人に言います」と続けます。これも随分とご丁寧な言い方です。「あなた方に言います」で十分ですし、そもそもローマにいる“あなた方”に宛てた手紙ですから、何も言わなくても相手は分かっていそうなものです。ですけれども、パウロは「あなた方一人一人に言います」と書きました。これから語られることは、教会に語られていることなのだと、つまり、みんなを一纏めにして言っていると取られては困るのだということです。中学や高校のころ、先生がクラスに向かって「お前たちは」と叱ることがあります。皆さんも経験があると思いますが、それはあまりこたえません。確かに私もお前たちの一人だけれど、一人で先生の叱責を受け止める必要はないのでちょっと安心なのです。でも、職員室に呼ばれたり、クラスの前に立たされて「お前は」と言われると話は別です。これは逃げようがない。クッションがない。一人で受け止めなければならない。パウロは、みんなをまとめて言いますよと言うのではなく、一人一人に向って、まだ会ったことのないローマの教会の人たちですけれども、でも一人ひとりが自分に語られている事として聞いてほしいと言っているのです。何を言うのか。まず、「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言います。自分を過大に評価してはならないとはどういうことでしょうか。自分もなかなかなものだ、大したものだと、実際以上に評価するのが過大評価の普通の意味です。それでは、その逆はどうでしょう。いいえ、私は大したものではありません、つまらないものですと謙遜すればいいのでしょうか。ある先生は、卑下慢という言葉を作ったそうです。卑下の高慢。自分を卑下するというのは慎み深く、正しく評価していることではない。それは高慢の裏返しなのだ。試しに、「まことにごもっとも。あなたは大したことない、つまらない人ですね」と言ってごらんなさい。不快に思うならば高慢の裏返しだと言いました。それでは、どんな評価が正しい評価なのでしょうか。「神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」とは、どういうことなのだろうか。まず、慎み深いというのは、神様の前に慎み深いということです。神様の評価の前に畏れを抱くということです。神様の評価とは、あなたの信仰は80点、こちらの人は50点というものではありません。これは、新改訳で引用しますが、イザヤ所43章4節にあるように「わたしの目にあなたは高価で尊い」という評価です。神様があなたを惜しんで罪の赦しのためにご自身の御子をお遣わしになって十字架につけられた、それほど尊いという評価です。その評価の前に畏れ、慎み深くその評価にアーメンというのです。それが、信仰の度合いに応じて慎み深く評価することです。今日は、この3節までしかお話しする時間がありませんが、4節は「というのは」と始まります。「というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形作っており、各自は互いに部分なのです」とあります。明らかに教会のことが語られています。なぜ、「というのは」なのでしょうか。私たちが神様が与えて下さる評価に恐れを抱きながらも感謝してそれを受けることと教会と何の関係があるのでしょうか。大いにあるのです。私たち一人一人が、あなたが神様の評価を慎み深く受け止めていないと、神様のその愛と恵みによって支えられているのだということを日々新たに確認して、そこに立っていないと教会はうまく成長することができないし、機能することもできないのです。高慢な人や卑下慢の人がいるとその教会は弱いのです。喜びがないのです。緊張がある教会になってしまうのです。パウロが「というのは」と続けたということは、後ろのこと、つまり教会の平和、安定、喜びに満ちていること、成長、それが彼のメインの関心であったことを示します。それが大切なのだ。だから、一人一人が慎み深く評価していなければならないのだ。そういう流れです。そして、最後に、慎み深く評価すると言いましたけれども、それは状態ではなく、生活の在り方だと思います。このくらい慎み深ければ、このくらい神様の恵みに根差せば完成だ、などということはないことは自明のことです。そうではなく、日々慎み深く生きることを学ぶのです。恵みの内に生きることを学ぶのです。そして、そのことを学ぶ場は、まず教会。教会生活が土台です。そして、そこを起点として、日々の生活の現場で慎み深く自分を評価し、慎み深く生活することを重ねていくのです。

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