見上げた信仰 マタイ 10:21-28

これほどまでに追い詰められた人がいるでしょうか。娘がひどく苦しんでいて手がつけられない。彼女はティルス、シドンの地方の人です。これらは現在のレバノンの町で、ティルスは世界文化遺産に指定されている現在のトゥール、シドンはサイダと呼ばれるレバノン第三の町です。ティルスはダビデ、ソロモンの時代はイスラエルと友好関係にある町で、当時の王ヒラムは神殿建築のための資材をイスラエルに送り、またソロモンとは共同で海上交易を行ったりもしていました。しかし、その関係は続かずにのちには非友好的となり、それ以来ユダヤ人にとってマイナス・イメージのある土地でした。また、シドンでは豊穣の神アシュトレトが礼拝されていましたが、ソロモンはシドン人の妻を通じてこの偶像の神を礼拝するようになりました。さらに、北王国の悪王アハブはシドン人のイゼベルを妻に迎え、バールと呼ばれる神を熱心に保護するようになりました。だから、ユダヤ人には、この地の人に対する差別意識が強かったのです。そんな彼女ですが、実に追い詰められに追い詰められていたのでしょう。もちろんアシュトレトやバールに祈り、その祭司に癒しを願いもしたでしょう。あちらの医者、こちらの医者も訪ね歩いた事だと思います。しかし、娘さんの苦しみは全く治まらず、親として胸が潰れるような思いで毎日を過ごしていたのです。そんな彼女が、遠くユダヤの地にメシアと呼ばれるイエスが現れたと聞きました。そして、そのイエスが何と、自分の住むシドンに来ているというではありませんか。もちろんユダヤ人に差別されている事は知っています。女性がさげすまれていることも承知です。でも、藁にもすがる思いでやって来たのです。それなのに、イエスは何も答えて下さらない。弟子たちは、イエスにこの女を追っ払って下さいと言っています。イエスがようやく口をきいてくれたと思ったら、なんと「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか使わされていない。子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃるではありませんか。皆さんだったら、どうしますか。「偽善者も甚だしい!なにが愛ですか!なにが、『自分のして欲しいと思う事を人にもせよ』ですか」。キリスト教って、こんなものなんですか。プンプンに怒ってしまって当然の場面です。私たちにも似たような事があるでしょうか。喜んで礼拝を守り、毎日祈り、そして、この出来事。きっとイエス様がすぐに助け手下さるに違いないと期待を持って祈りに祈って・・。でも、全く神様は動いて下さるように見えず、心の中で「お前のようなものが祈ったって神様が聴いて下るはずがない」という声が聞こえて・・。これが愛の神ですか!キリスト信仰ってこんなものなんですか!そう叫んで、もう教会とは、イエス様とは縁を切ってしまおう、そんな思いになってしまうかもしれない状況です。ところが、この女性は、少し後にイエス様から「婦人よ、あなたの信仰は立派だ(口語訳聖書では“見上げたものだ”と訳しています)。あなたの願いどおりになるように」と言われる事になるのです。イエス様は本当に感動したのです。この女性を心から喜ばれたのです。弟子たちは唖然としていたでしょう。イエス様が、物の数にも入らないと思っていた異邦人の女性に感動して最大限の賛辞をささげておられるんですから。さて、それでは、主はこの女性の何に感動し、賛辞を贈られたのでしょうか。それは、女性が食い下がった事に始まります。先程この女性が土地の偶像にお参りをしたり、医者をあちこちと回ったりと、まあ、万策尽きていることを申しました。もう、最後の手段としてイエス様にかけようと決めていたのです。だから、そう簡単にあきらめる事は出来ないのです。弟子の非難にめげるわけにいかないのです。そして、イエス様の拒否とも思えるようなお言葉にすらひるむ事は出来ないのです。求め続けたのです。門を叩き続けたのです。ふつう、人間同士だったらどうなのでしょうか。しつこいなー、いい加減にしてほしいなー、と思ってしまうかもしれませんが、イエス様は、そのように思わないばかりか、そのようなしつこさ、粘り強さ、つまり、もう他の何ものにでもなくイエス様だけにお願いする姿勢を大層喜ばれるという事なのです。それから、この女性は異邦人ではありましたけれども隊商の商人などからイスラエルでの出来事や歴史を聞いていたかもしれません。私たちが士師記や列王記、歴代誌、そして預言の書で知るようにユダヤの民が神様を忘れても忘れても神様は忘れなかった事、ユダヤの人が神様を離れてあちらの偶像、こちらの偶像に頼り、またあちらの国、こちらの国に頼るような事があっても、つまり神様を捨てるような事、裏切るような事があっても神様は決して捨てる事も裏切る事もなさらなかった事を聞いていたのだと思います。そして、遠くユダヤの地にイエスと言う人が現れて福音をのべ伝えている事、奇跡をなさっている事を聞くに及んで、この方こそが人となられた神、キリストであると信じたのでしょう。そして、その信仰から動かなかったのです。弟子の冷たい態度にあっても、イエスの冷たく感じるような言葉にあっても動かなかったのです。もちろんイエス様は、冷たくあしらったのだけれど女性の信仰を見て途中で態度を変えたという事ではありません。この女性が、また、この出来事を見ている弟子たちがどんなに状況が否定的でも信頼して祈り続けるべきなのだという事をしっかりと心に刻みつけるためだったのです。そして、それが弟子の心に深くしみ込んだ事は、使徒言行録や彼らの後の手紙を読めば分かります。見上げた信仰。それは、口先だけの信仰と対極にあるものです。この章の7節でイエスはファリサイ人や律法学者を偽善者と呼び、イザヤの言葉を引いて「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」とおっしゃいました。人間の戒めとは、あなたが素晴らしく立派であるかどうかによって神様が聞いて下さるか、助けて下さるかは決まるというものです。神の憐れみではなく人の功に目を留める教えです。そして、それを教える人、そのように考える人は自分には憐れみは必要ない、あるいは、少しは自分に功があるから、神様はそれに応えるべきだとどこかで思っています。神様が見上げた信仰とおほめ下さるのは、その逆です。偽善者でない信仰。自分には功は全くないけれども神様には無限の愛がある。その愛の故にわたしは神様に祈り、願い、期待する事が出来るのだとするのです。コリントの信徒への手紙二12章5節でパウロは、この事を「しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と告白しているのです。私たちは、このティルスの女性に倣いましょう。状況が否定的でも、サタンは、また内なる声がお前なぞ、と語ってきても、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずは頂くのです」と言いましょう。

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