誰のために生きるのか ローマ 14:7-8 

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」と読みました。一体自分は誰のために生きているのだろうか。これは、大きな問いであり、また誰もが問う問いだと思います。そして、この問いは自分は何のために生きているのかと問うのと同じことだと思います。と同時に、この御言葉のように、だれ一人自分のために生きる人はないのだと言われてしまうと戸惑いを覚えるのではないでしょうか。私は、その学校の卒業生ではありませんが関東学院の校訓を思い出します。それは、“人となれ、奉仕せよ”というものです。それは何を言っているのだろうか。人間というものは奉仕する、つまり人に仕え、人に役立とうとするものだ。自分のために生きるのではなく人の為に生きなさい。そうでなければ人間とは言えない、という意味でしょうか。あるいは、立派な人になりなさい。そうすれば奉仕の人生しか歩めなくなるはずだ。自分のために生きるなどということはできなくなるはずだ、という意味でしょうか。そうだとしたら、ちょっと高邁すぎてついていけない。校訓などとというものは所詮理想を掲げるだけのものだと言うしかない。そんな気がしてまいります。また、先程の聖句の続きを読みますと「生きるとすれば主のために生き」とあります。そう言われてしまうと、ますます自分の居場所はなくなってしまう。とても私は主のために生きています、などと言い切る勇気はありません。既に読みました7章で、パウロは、私たちは善をなそうという意思はあるけれどもそれを実行できない。かえって望まない悪を行ってしまうと言いました。つまり、善をなそうと思う自分に、いつも悪が付きまとっているという法則がある。内なる人としては神の律法を喜んでいるけれども、罪の法則が私の内にあり、こちらの方が勝ってしまうと語りました。こちらの方はすごく身に当てはまり、うなずけます。そして、うなずいた後で私たちは主のために生きているなどと聞くと、それは全く自分には当てはまらないと思うわけです。「いずくまでも行かん、いずくまでも行かん、いずくまでも行かん、愛する主のために」という聖歌がありますが、どうもこの歌を大きな声で歌えない、と告白してくれた方が昔いらっしゃいました。この方は、すごく主の前に素直で自分をごまかさない、信仰という言葉で簡単に事をくくってしまうことをしない方だなと思わされました。遠藤周作の「沈黙」という小説は棄教を扱った小説だそうです。迫害にあって、ぎりぎりまで追い詰められて「生きるとすれば主のために生き」という生き方が出来なくなり信仰を捨てる人の話です。その人を声高に非難することが出来る人はそれほどいないのではないのでしょうか。一体「生きるとすれば主のために生き」とは、どういうことなのだろうと考えさせられます。それでは逆に、私は自分の為だけに生きている、他の人など全く意に介さない、と言うことが出来るだろうか。少なくとも、そう言われたくはありませんね。また、自分に対する執着はとても強いと思う一方で家族についてはどうだろう、妻や子供のためなら何でもと言い切らないまでも、かなりの事が出来るのではないかと思ったりします。子どものためならと教育費を惜しみなく出したり、将来の夢をかなえられるように出来る限りの援助をしようとするのではないでしょうか。おれおれ詐欺と言うけしからん犯罪がありますが、これも、子どものためならという親心につけ込んだ悪行です。こんなことを考えても、だれでも全く自分のためだけに生きているというわけでもないような気がしてきます。ここでも自分のために生きる人はなく、また生きるとすれば主のために生きるとはどういうことかと考えさせられます。今まで、いろいろと私の側から、人の側から「主のために生きる」ということについて思い巡らして参りました。すると答えは見つからない、なんだか堂々巡りのようなところにはまり込んでしまうことが分かりました。その理由は、そもそもアプローチの仕方が違っていたようです。「主のために生きる」というテーマに取り組む入口が違っていたようです。“私たち”は入口にならないようです。「主のために生き、死ぬ」とは私たちの心の中の思いやそれによる行いから考えるべきことではないようです。そもそも、主は私たちの思いや行いのよって支えられるのではない。私たちが悪者だから、そのようなものが信じる神はいか様だということにはならないでしょう。それでは、どのように考えればよいのか。9節に、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。口語訳聖書を見ますと、この頭に「なぜなら」と書かれています。どうしてかと言うと、イエス様が私たちの主となられるために死んで復活されたからだというわけです。ですから、「主のために生き、死ぬ」というのは私たちがそのように生きることによってイエス様が本当に主となって下さる、それまでは、仮免許みたいなもので本当には主とは言えないのだということではありません。また、決意表明みたいなもので、私たちは主のために生きようではないかと言っているのでもありません。そうではなく、もうキリストが主となられた。ご自分の意志と行為で主となって下さった。私たちは何もそこに加える必要はないし、加えることは出来ないし、加えようとしてはならないのだという事です。だから、主のために生き、死ぬ、つまり存在するとは、もうキリストによって一方的に主のものとされてしまっている事実、自分のいかなる行為や思いによっても変えられない事実の内に生きている事であり、その事を畏怖をもって感謝することなのです。そこに礼拝が生まれます。そこに礼拝としての毎日の生活が紡ぎだされます。そこのところに生きて初めて人は人となり、奉仕に導かれます。今日から受難週に入ります。主の受難を思い、復活を待ち望む週です。その事を通して私たちが主のものとされたこと、復活の命にあずかる者とされたことを思い巡らしたいと思います。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0