酸いぶどう酒を含まれたイエス ヨハネ 19:28-30

もうすぐぶどうの季節です。ぶどうというと山形県にいたころ、わたしがいた米沢市からカウンセリング・セミナーをするために山形市に向かう途中、あちらこちらにぶどう畑があったことを思い出します。ぶどうは糖分が多い果物で、食べると甘酸っぱさが口に広がって美味しいだけでなく元気が出るものです。イスラエルでは、ぶどうは祝福の象徴でした。モーセの時代、荒野を旅するイスラエルの民が彼らに約束された地を偵察に行った時、豊かな土地の象徴として持ち帰ったのがぶどうの房でした。今でも安息日の食事には必ずぶどう酒が出されます。私たち夫婦もイスラエルに行った時、シャバットの食事をいたしました。みんなで歌を歌い、聖書の一節を読み、ぶどう酒を飲み、そして食事を楽しむのです。パンや一つ一つの食材に意味が込められています。もちろんぶどう酒も神様の祝福の象徴としてテーブルに出されていました。ユダヤ人は、ぶどうに他の果物にはない霊的な意味を見出しているのです。イエス様は、ヨハネの福音書15章1節から7節でご自分とイエスに従うものとの関係をぶどうと枝を用いてたとえられました。イエス様は幹であり、わたしたちは枝だ。枝は、幹につながっていなければ栄養を取ることは出来ないし実を結ぶ事も出来ない。わたしたちの体の栄養は穀物や肉、魚、野菜などで取ります。キリスト者としての霊的な栄養はイエス様とつながっている事によって得る事が出来、それによって実を結ぶことが出来るという事です。そして、その実はガラテヤの信徒への手紙5章22節にあるように喜びや平安などの霊の実です。また、ぶどうの木を見ますとどこまでが幹でどこからが枝なのかよくわからないのです。イエス様は、それほどまでに私たちと一体になって下さるということをおっしゃりたかったのではないでしょうか。また、旧約聖書にはぶどう畑が神様と神の民の関係を現すたとえとして用いられています。神様がぶどう畑を造り、畑を荒らす動物が入らないように塀で囲い、真中には見張りの塔を立てて、ぶどう畑の手入れをします。もちろん、季節になったら豊かな実がなるようにと期待しておられます。しかし、エレミヤ書2章21節を見ますと「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしにそむいて悪い野ぶどうに変わり果てたのか」と言われます。イザヤ書5章4節でも「わたしがぶどう畑のためになすべき事で何か、しなかった事がまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」と嘆かれます。そして、5節以下、「さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる」と続けておられます。この御言葉を読んで、わたしたちは何を思うでしょうか。わたしは甘いぶどうであろうか、酸っぱいぶどうであろうか。本当に甘いぶどうの実を結んでおられる方には今日のメッセージは必要ありません。しかし、もしも自分は甘くない、酸っぱいぶどうだ。神様の期待に少しも応える事が出来ない。神様を悲しませてばかりいる者だ、と思われるならば、耳を傾けて頂きたいと思います。イエス様は、この地上で最後に口にされた物は何だったのだろう。十字架の上で死なれる前に口にされた物は何だっただろうか。それは甘いぶどうではなく酸いぶどうだったのでした。人々に喜ばれ、食事を豊かにする甘いぶどうではなく、役に立たず、口をしびれさせてしまうような酸いぶどうを口にされたのです。そして、息を引き取られ「成し遂げられた」と言われたのです。十分に行った、完了した、満足だという事です。なかなか、そのような言葉を残して死ぬ事は出来ません。ましてや、イエス様の死は普通に考えれば非業の死です。神の子でありながら人に拒まれ、パリサイ人や律法学者に憎まれ、人々「十字架につけろ」という叫びの中で死んでいかなければならない。死んでも死に切れないのではないでしょうか。むしろ恨みと無念な思いの中で死ぬような死ではないでしょうか。しかしイエスは、「成し遂げられた」と言われたのです。この、酸いブドウ酒を飲んだ事、そして成し遂げられたという言葉の間には深いつながりがあると思います。弟子たちは、イエスにとって良いぶどうだったでしょうか。イエスがすべての人を罪から救う救い主だとは最後まで理解する事が出来ずにユダヤ人だけの、そして政治的・経済的な意味に限定された救い主と思っていた彼らです。誰が一番偉い弟子だろうと、いわば権力闘争を繰り広げていた弟子たちです。そして、イエス様が捕まるとクモの巣を散らすように逃げてしまい、何とか踏みとどまってイエスがどうなるのかを見ようとしたペトロも三度もイエスを知らないと言い張った、そのような人たちです。簡単に踏み絵を踏んだ弟子たち。しかし、イエス様は、そのような彼らを、また私たちを象徴する酸いブドウ酒を口に含まれて、つまり一体となられて、そして十字架の上で死なれたのです。イエス様が酸いブドウ酒そのものとなられたのです。そして、酸いブドウ酒として、つまりわたしたちとして、わたしたちの身代わりとして神様の裁きを受けて下さいました。先程読みましたイザヤ書の5章を思い出して下さい。よいぶどうを実らさないぶどう畑をその主人はどうしたでしょう。垣を壊し、人が踏み荒らすままにしました。神様は、良いぶどうを結ばない事、つまり罪びとを裁かれるという事です。聖書は「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。みな迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行うものはいない。ただの一人もいない」と語ります。ローマの信徒への手紙3章10節から12節です。しかし、ローマの信徒への手紙5章7節と8節には、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。よい人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さった事により、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。酸いブドウ酒であるわたしたちを神様は惜しんで下さり、神の子イエスはわたしたちのために死んで下さいました。この事によって神様の愛が示されたと伝えているのです。マタイの福音書26章29節を見ますとイエス様は、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲む事は決してあるまい」と言っておられます。でも、十字架で酸いぶどう酒を飲まれました。つまり、ここで言っているぶどう酒は良いぶどう酒の事です。天の御国で、わたしたちと新たに飲むその時には良いブドウ酒を飲むと言われたのです。その時には、わたしたちは全く新たにされ、罪の存在からも解放され、良いぶどう酒となることが出来ます。それまでは、酸いブドウ酒であるわたしたちを受け入れて下さる。イエス様は、その決心をのべられたのです。そして、十字架で、これから酸いぶどう酒であるわたしたちと一つであり続けて下さるしるしとして酸いぶどう酒を飲まれたのです。

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