12月20日(日)ライブ礼拝 クリスマスと教会の使命 マタイ 28:18-20

クリスマスおめでとうございます。何がおめでたいのかというと、全ての人の救い主、あなたの、そして私の救い主がお生まれになったことです。しかし、救い主のご誕生は、本来まずユダヤ人が祝うべきものであることに気づかれるでしょうか。クリスマスは、救い主がお生まれになるというメッセージはユダヤ人に委ねられたメッセージだったのです。すでに学びましたように、救い主のご誕生は罪を犯してしまったアダムとエバに約束されました。その時は、一人の男性であるということだけが明らかにされました。それから、アダムから20代目のアブラハムに神様の言葉がありました。彼がすべての人の祝福の源になると。つまり、彼の子孫に救い主が生まれるということです。その後、イサク、ヤコブと約束は引き継がれ、次にヤコブの息子の内にユダの一族、さらにユダ一族の中のダビデの家系に生まれると約束されたのでした。これらの神の言葉は、日本人に語られたのではありません。アメリカ人に語られたのでもありません。もちろん、当時アメリカはなく、日本も一つの国家、民族として成立していなかったでしょうが、言わんとすることはユダヤ人に語られた言葉であり、他のどの民族に語られた言葉でもなかったということです。全国ネットの放送のように、全ての人に同時に語られたのではなく、ユダヤ人に語られた。そして、ユダヤ人は、ある使命と共にその言葉を聞いたのでした。その使命というのは、救い主が生まれるという知らせをすべての人に伝えるという使命です。そして、それはアブラハムや、彼から生まれ出たユダヤ民族が偉大だったからではありませんでした。申命記7章6、7節に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心惹かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」とあります。神様は、見栄えのしない、取るに足りないと思われているような、そのような人を、グループを用いられるのです。ところで、全ての人に「やがて救い主がお生まれになる」というメッセージを託されたユダヤの人々ですが、だんだんとそのことを忘れてしまいます。今の時代も、いや、いつの時代もそうなのですが激動する世界情勢の中で、また、個人レベルで見れば日々の生活の忙しさや困難の中で神様どころではなくなってしまったのです。目の前の問題に対処しなければならない。何とかしなければならない。わたしが献身したときに親友が「牧師になんかなってちゃんと生活していけるのか」と心配してくれました。目の前の事柄に対処するのに神様は邪魔だと感じてしまうのでしょう。ユダヤの人たちもそうだったのです。でも、そんな彼らの中にイエス様は、約束通りにお生まれになりました。さて、その時です。羊飼いたちが、天使にイエスの誕生を告げられてやってきました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」(ルカ 2:15)そして、17節に「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。彼らは、ユダヤ人です。しかし、羊飼いは安息日を守れないということで見下げられ、差別されていました。汚れた人、罪人と呼ばれていたのです。まさに、“取るに足りない人”です。しかし、彼らがイエス誕生を伝えました。東方からは占星術の学者たちがやってきました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ 2:2)彼らは異邦人であり、占星術の専門家です。星占いは、まことの神ならぬものに聴くことであり、律法で禁じられていることです。そんな彼らもユダヤ人の蔑視の対象でした。しかし、彼らは礼拝をしに来ました。そして、自分の国に帰って行った。きっと、イエスのことを伝えたに違いありません。一方、ユダヤ人の専門家たちは救い主はベツレヘムに生まれると預言者が言っているとか議論をするばかりで実際にイエスのところに行こうとする者は一人もいません。やがて彼らは救い主に敵対し、十字架に付けてしまうことになります。ここに至って、神様はすべての人に救い主を伝える業をユダヤ人ではなく教会にお任せになります。「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒 1:8)と言われ、ペンテコステと言われる祭りの日に確かに聖霊が降り、ペテロをはじめ一人一人はイエスを伝える力を与えられました。(いや、一人一人を用いて、通して聖霊なる神様がイエスを伝えられました。)実際、彼らの伝道は彼らの力量によるものではなく、聖霊の働きでした。大見得を切っていたけれどもイエスが裁判にかけられる団になると三回も主を知らないといったペテロでしたが、今や聖霊に満たされ、世界中からやってきた人々を前にイエスを証します。あのペテロがです。まさに、ペテロによるのでなく聖霊がペテロを通して働かれたのです。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となるという主のことばはここにその実現の第一歩が踏み出されたのです。ペテロによってではなく聖霊によって第一歩が踏み出されたのです。その後、主イエスの救いを伝え、主の教えを守るように伝えよというマタイ28章19,20節の宣教委託は教会に担われ、聖霊の働きにより、まさにエルサレムにとどまらず、ユダヤ、サマリヤの全土に、ヨーロッパに、アメリカ大陸に、そして日本へと伝えられていきました。わたしたちは、わたしたちの教会は、この大きな歴史の流れ、主の物語の展開の中に置かれています。クリスマスの物語は遠い昔の出来事であるだけでなく、いまも生きる救いの物語、救い主のご誕生という出来事であり、それを伝えるようにと教会は主の期待を担っているのです。ペテロにおいてすでに見ましたように人の力、教会の力によるのではありません。聖霊様に用いて頂きたいと願う教会は、どんなに大きな教会でも、またどんなに小さな教会でも区別なく神様に用いられるのです。今、クリスマス礼拝を守っているわたしたちは、この歴史の流れをもう一度確認し、その中の私、その中の私たちの教会であることを確認して家族や友達に、日本に、世界に主の救いを伝える使命を担っていきましょう。

 

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