1月17日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅱ 第一コリント 1:1-3

 

前回に引き続き、コリントの信徒への手紙1章1節から3節より神様に聴きたいと思います。パウロは、コリントの教会に手紙を書きます。わたしたちもそうするように、まず挨拶をしたためます。まず、自己紹介です。自己紹介と言っても、パウロとコリントの教会の人々は初対面なのではなく、お互いに知った間柄なのですが、パウロはどのような立場で彼らに手紙を書いているのかを明確にします。彼は、神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった者だと書きました。これが出だしです。“神の御心によって”ということと、“召されて”ということについて前回お話ししました。そして、この二つのことは、パウロに限られたことではなく、あなたも、わたしも神様の御心によって召された者であることを確認しました。もう一つ、この最初の書き出しでパウロは、「使徒となった」と言っています。これも、自分で立候補してなったとか誰かに推薦されてなったということでなく、召されて、神様の主権のもとに使徒となった。だから、使徒とされたと言ってもいいでしょう。使徒とは何か。まず第一に、イエス様の教会が揺籃期にあった時、そして、まだ聖書が確立していなかった時の一つの役職と言いましょうか、教会を指導すると同時に神様のみ言葉を取り次ぐ役割を担う者でした。そして、新約聖書が確立するのは4世紀後半なのですが、御言葉そのものは主に使徒たちによって語られ、そこで閉じられました。と同時に、使徒職という役割はなくなったのです。ですから、今は、使徒職はありません。使徒だと言って、新しいことを聖書に付け加える人がいたならば、その人は神様の御心をしているのではありません。ヨハネの黙示録22章18節に「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをそのものに加えられる」とある通りです。しかし、使徒について、もう一つのことが言えます。そもそも使徒というのは、何か使命やメッセージを託されたり、これこれの事をして欲しいと遣わされる使者のことを言います。例えば、子どもにお使いを頼む。お米を買ってきてと頼んだとしましょうか。しかし、その子はパンの方が好きなのでパンを買ってきた。そうしたら、お使いにならないわけです。自分はパンが食べたいけれど、お米を買ってきてと言われたからお米を買う。あるいは、人に頼んで、明日の夜10時から会議があるからと伝えてもらう。ところが、その人が10時では遅すぎて大変だろうと親切心をはたらかせるつもりで5時からだと伝えてしまったらどうでしょう。それでは、困るわけです。使者にならないわけです。マルコによる福音書16章15節を見ますと、わたしたちはイエス様に「全世界に行って、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われているわけです。ですから、福音を、そのまま、変える事をしないで伝えるのです。ですから、この意味では教会が、キリスト者一人一人が遣わされた使徒であるのです。コリントの信徒への手紙二5章20節に「私たちはキリストの使者なのである」(口語訳)とある通りです。ガラテヤの教会の人々の中には、福音を曲げて、つまり、信じるだけではだめだ。救われるためには割礼を受けて律法を守らなければならないと教える人がいました。この人たちは、使徒の働きをしていないわけです。信じるだけで救われる。そして、その人は神の作品として神様と共に歩む。主の目によいことをしようと心がける。それは、救いの結果であって救われるためではないわけです。では、どのようにしてこの使者の務めを果たすのか。これは、キリスト教ではないのですが、ある時電車の中で一人一人に自分の信じる宗教に入らなければだめだと言っている人がいました。寝ている人も起こしてです。明らかに、みな迷惑顔でした。この方は熱心です。この方にとって本当に、大切なことを伝えているのでしょう。しかし、むしろ反感を買ってしまいます。やはり、ここは知恵が必要ですね。ペトロの手紙一3章1節に「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」という言葉があります。妻はクリスチャン、夫はノンクリスチャンというシチュエーションです。妻は、一日中、夫の方にラジオを向けて福音放送を流して「あなた、祈っているからね。信じてね」と言うのではなく、むしろ無言の行いによって伝道しなさいというのです。無言の行いの伝道と言うのは、自分自身が神様にしっかりつながり、祈り、悔い改めるべきを悔い改め、このシチュエーションでは、夫に謝らなければならないことがあれば謝りと、“神と共に”という生活を確立することです。もちろん言葉では福音を全く語らないということではありません。同じペトロの手紙一の3章15節に「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とあります。「心の中でキリストを主とあがめ」るとは、“神と共に”の生活をすることです。そうするならば、福音を言葉で語る、伝えるチャンスがやってくるから、そうしたら語りなさいということです。また、社会とのつながり、人とのつながりにおいてもわたしたちはキリストの使者、キリストの使徒です。あなたの職場や家庭での、また地域での役割は、望んでしている仕事や役割かもしれません。でも、もしかしたら心ならずも今の仕事をしたり、他に誰もいないので仕方なくある役割を担っているのかもしれません。しかし、それは神様の御手の中での出来事です。神様に遣わされてその仕事、役割を担っているのです。ですから、いま与えられているところで、たとえ喜びに満たされてというわけにはいかない場合でもふてくされないで主と共にその仕事を担ってください。そうするならば、得るものがたくさんある事が見えてくるでしょう。後になって、役に立つ時が来るでしょう。今の時を受けとめて生きることは、人生の秘訣のようです。その事を、コヘレトは3章1節で「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と言い、11節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業をはじめから終わりまで見極めることは許されていない」とあり、さらに11章1節では「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう」と言います。今の、この時の出来事には意味があるのだということです。パンを水に浮かべて流すように無駄に思われるかもしれないけれども決して無駄ではない。後で、そのことが実を結ぶだろうと教えるのです。今日、わたしたちが聴いたことは二つです。まず、一人一人がキリストの使節であり使徒であること。遣わされた者として福音に生きる、神様と共に生きること。それが伝道であり、また直接伝えるチャンスを生み出すこと。今の人生に遣わされている使節であること。だから、今日この場で、精いっぱい生きようではないかということ。なぜ、いまこんなこと・・。でも、その意味を見極めることは人間に許されていない。と同時に、全能の愛なる神様は、全てをご存知であること。だから、神様に委ね精いっぱい生きようではないか。これが二番目です。この事を今日聴き、心に留めて、主と共にこの一週間を歩んでまいりましょう。

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