1月24日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅲ 第一コリント 1:1-3

 

コリントの信徒への手紙一を読み始めて3回目です。まだ、1章1節から3節を読み続けています。聖書の言葉は、噛めば噛むほど味が出てくると言いますか、本当に短い一節の中にも豊かな神様の言葉がそこにあるのだなと思わされます。今までの二回は手紙の書き初めに当たっての書き手の挨拶を見てきました。2節からは手紙の受け手についてパウロが書くわけですが、その間にパウロが一人で手紙を送るのではなく「兄弟ソステネ」が共に挨拶を送ると書かれています。でも、ソステネも手紙の文章にかかわったのではなく、明らかにパウロ自身が、いつものように筆記者を立ってて(パウロは目に障がいがあったと言われています。そのために、口頭で語ったことを誰かに書いてもらうという方法で手紙を書いたようです)書いたのです。そのことは、手紙の最期、16章21節で、パウロがわざわざ「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」と書いていることから分かります。最後の挨拶だけは、自分で書いたのです。それでは、たまたまソステネがそこにいたからついでに挨拶のところで名前を加えただけなのかというとそんな事でもないでしょう。パウロが書いた手紙だけれど、そして、それはパウロにとって主にある業、奉仕の働きだけれど、それは同時に協働の働きだ、主の業は一人でやるのではなく協働の働きとしてなされるのだということを示しているのです。わたしたちの教会は、日本バプテスト連盟という交流団体に加えて頂いています。交流団体といっても茶飲み友達のようなお付き合いをするということではありません。それぞれの教会は自立していて、他の教会から指示を受けたり本部のようなところから命令を受けたりしてそれに従うのではない。まさに独立して自分でどのような活動をするのか、外部に対してどのような働き、団体、あるいは個人を応援するのか、または、そのようなことはしないことにするのか、アドバイスを求めたり、していただくことはあるでしょうが、他から指示されることはありません。しかし同時に、全く孤立して、排他的に活動をするのでもありません。協議し、協力して主の御用をいたします。いわゆる大きな、力のある教会がそうでない教会を助けてあげるというのではありません。平等の立場で協力し合い、共にイエス様に従っていくのです。神様は、そんなことを伝えるためにパウロをして「パウロと、兄弟ソステネから」と書かしめたのです。お一人お一人の信仰生活もそうです。独りで聖書を読み、一人で祈り、一人で信仰生活をすれば十分じゃないか。人が集まれば集まるほど、色々な人がおり、自分とあわない人もいるから面倒じゃないか。そうではないのです。神様は、信仰生活は神様と、あなたと、キリスト者仲間、具体的には教会と共に、教会の中でするように定められました。コロナ感染の事が起こったのがきっかけで、わたしたちの教会ではライン・グループを作りました。なかなか会うことが出来ない状況の中で情報を共有し、近況を伝えあい、そうして祈りあうためです。また、証しの場所にもして欲しいと思います。今日、聖書のここを読んだ。それだけでもいいです。ああ、あの友は聖書を読んだのだなと知るだけで何だか嬉しくなります。読んで、こんなことを感じた、こんなことを示された、分からなかったんだけれどどういう事だろう、全然受け入れられなかった。納得できない、そんなことを分かち合ってもいいですね。今、集まって教会学校や祈り会を開くことが困難な状況です。この状況は、まだしばらく続くかもしれません。そのような中で、ただコロナの終息を待つだけでなく、今できる方法で、集まってというほどの臨場感というか、緊張感は得られないかもしれないけれど、また逆にライングループだからこそいつでも発言し、いつでも読み、お互いを覚え合うことが出来ると前向きにとらえたいと思います。パウロは、「兄弟ソステネから」と書くときに本当に心強かったと思います。彼のクリスチャン生活、伝道者としての生活は決して平たんではなかったのです。コリントの信徒への手紙二11章23節から28節で、パウロは多少感情的になって次のように語ります。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」悪い事をして投獄され、鞭うたれたのではありません。イエス・キリストの福音を伝えたために投獄されました。石を投げつけられました。伝道のための移動も困難でした。川で流されたり、盗賊にあったり、キリスト教徒の様で全く違う教えをする偽の兄弟たちから迫害されました。そのような中で教会だけはオアシス、というわけでもなく、色々調停したり指導をすることもありました。そして、彼の手紙を読むならばみんながみんな彼の使徒職を認めていたのかというとそんなことはなかった。使徒であることに疑問を持つ人もいたのです。また、彼には肉体的な弱さもありました。先ほど申しましたように、一説には目に障がいがあったとも言われます。何度も癒してくださるようにと神様に祈ったと言います。でも、癒されなかった。神様に「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われてしまいます。コリントの信徒への手紙二12章9節です。わたしだったらそんな冷たい、と思ってしまいそうです。彼のような環境にいたら神経が参ってしまいそうです。しかし、彼は言いました。今読みましたコリントの信徒への手紙二12章9節から続けて10節を読みます。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」パウロがこのように言うことが出来たのはなぜか。もちろん神様との交わりがあったからです。しかし、聖書全体を読むと、神様との交わりというのは一対一の交わりだけでなく、教会の仲間との交わりの中で行われ、またはぐくまれることが分かります。あなたのソステネは誰でしょうか。今、共に礼拝を守っている教会の友一人一人があなたのソステネです。また、あなたは、共に礼拝を守っている友、一人一人のソステネです。信仰生活は、“共にする業”です。コロナ・ウィルスのために交流が分断されがちな今こそ、この事を覚えましょう。

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