1月3日(日)ライブ礼拝 主は救い、再建される Ⅱ 詩編 69:35-37

 

年をまたいでの連続メッセージになりました。「神は救い、再建される」というテーマでのメッセージ、後半です。前回は、神様が救ってくださるというメッセージをいたしました。「救う」とか「救われる」というのは、いわばキリスト教用語で、イエス様を救い主と信じること、そして信仰を教会に告白し、バプテスマを受け、教会のメンバーに加わることを言います。今日は、「再建される」という部分に関してのメッセージです。実は、“救う”と“再建される”には、溝と言いますか、救われたけれども再建に至らない、ということが起きることがあるのです。コロナ・ウイルスは、ある意味でキリスト者をふるい分けているように思います。この出来事によって教会から縁遠くなってしまう人がいます。聖書を読まなくなる。祈らなくなる。礼拝から離れてしまう。きつい言葉であることを知りながらあえて言います。キリストをどれだけ愛しているか、救われたことをどれだけ感謝しているかが見えてしまうのです。さて、ここでの再建とは人生の再建です。コリントの信徒への手紙二5章17節に、「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造されたものなのです」とあるように、イエスを信じた人は、それまでのその人と違うのです。何かが新しく始まったのです。つまり、救われて完結ではないのです。ガラテヤの信徒への手紙2章20節に、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしがいま、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する信仰によるものです」とあるように、イエスを信じ、イエスに従う歩みが始まったのです。さらに、フィリピの信徒への手紙1章6節に、「あなた方の中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。あなたの救いは神様が始められた御業です。そして、神様がそこから再建の業を始められ、完成してくださるという約束です。にもかかわらず、イエスを信じ、告白し、そこで終わりということが起こりうるのです。二つの理由があります。一つは無知です。申し上げましたように、救いは終わりではなく、むしろはじめであるのに、そこを勘違いしてしまうのです。わたしは救われた。永遠の命を頂いた。神の子とされた。ハレルヤ、感謝します。そこで終わり。インマヌエルの神、共にいてくださる神と歩む醍醐味に進むことなく終わってしまう。残念なことです。もう一つは誤解です。イエスを信じた。祝福に満ちた人生が始まる。その通りです。しかし、時としてその祝福は、自分の望む祝福、欲しい形の祝福という意味で考えるのです。そして、それが思うように手に入らないとがっかりしてしまうのです。ご利益宗教の域を出ないのです。しかし、神様は、キリスト者が育つことを望んでおられます。育つというのはどういうことなのか。エフェソの信徒への手紙1章17節から20節のパウロの祈りの中に示されています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。第一に、より深く神を知ることです。知識として知ることではありません。知識も大切ですが、その知識を通して実態として神様を知ること。疑っていたトマスが、「わが主、わが神」と心から告白したように、「ああ、本当に神様はおられ、共にいて下さり、導いてくださるのだ。わたしの主よ」との告白に導かれることです。第二に、キリスト者の受け継ぐ物の豊かさを悟ることです。その豊かさは、世を去った後にだけあるということではありません。今、あなたの人生で味わうことができます。それは、目に見える富と力、この世の物に最大の価値を置くことから自由にされるときに味わうことができます。第三には、あなたに対して絶大な働きをなさる神の力を知ることです。その力はキリストを死から復活させた力だとあります。わたしたちがどうしても勝てない死に打ち勝った力をもって歩むことができるということです。そして、人の歩みとは、本来そのようなものなのです。それが自然なのです。だから、本来のものに建て直される、再建なのです。それでは、どのようにしてこの再建がなされるのか。再建されるのは神。しかし、あなたは神と協働しなければなりません。第一に、信仰生活のスタイルをきちっと建てあげるということです。あなたのスタイルを確立し、それを崩さないことが大切です。わたしは、年1回新・旧約聖書全体を通読することにしています。あるいは、牧師という立場に置かれているのでそのようなことができるのかもしれません。確かに、40年前、サラリーマン時代に1年1回の通読は難しかったと思います。でも、とにかく聖書を必ず読む。皆さんは時間で決めた方がいいでしょう。一日何章と決めると詩編119編のような長い章に来たとき困ります。1日最低15分読む。暇な時に読むのではなく、朝の、あるいは夜の、あなたが一番落ち着けるとき、集中できるとき、というか一度決めてしまえばその時間が集中できる時間になるかもしれません。聖書を読むにあたって、お好きな賛美歌を一曲歌うのもいいでしょう。最低15分読んだら、読んだことが自分に何を語りかけているのかを思い巡らす。ノートと筆記具を用意してください。表紙に「日々の黙想」とか、「日々のディボーション」とか書いてください。そして、毎日心に留まった聖句を書き、何故心に留まったのか、その言葉が自分にとってどんな意味を持って迫ってきたのかを書きましょう。時として何故心に留まったのか分からないこともあるかもしれません。その時は、聖書のことばだけ書き留めておきましょう。その後、祈りの時を持ちます。まず、神様をほめたたえましょう。救ってくださったことを感謝しましょう。神様と聖書を通して時を共にできたことの感謝。朝であれば一日の導きと守り、そして、福音を分かち合うチャンスが与えられることも祈りましょう。一日一人ずつ教会の仲間のことを祈るのもいいですね。夜であれば一日の導きを感謝して祈りましょう。これは、毎日決まった時間に行います。必要なら携帯電話はマナーモードにします。そのほかの時間。仕事の最中、家事をしているとき、通学途中と時間を構成する出来事が連なっているわけですが、出来るならば、その中でちょっとの時間でも祈ります。祈ることができないまでも神様に思いをいたします。そのような習慣を今年は身に付けましょう。聖霊なる神様は、そのような習慣をつけようとするあなたを助けてくださいます。再建は、一日で終わるのではなく、少しずつ、毎日、ずっと、より強固なものへと再建されていきます。牧師はただの人間。その人間が言うこと。その通りです。しかし、牧師は自分の好き勝手の話すのではありません。時として、自分にきついこともあります。でも語ります。神様の言葉を取り次いでいるという確信があります。どうか、神様からのアドバイスであり願いとして、今日のメッセージを、また毎週のメッセージを聴いていただきたいと思います。

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