1月31日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅳ 第一コリント 1:1-3

 

コリントの信徒への手紙一、冒頭のパウロの挨拶から四回目のメッセージです。今までパウロ自身の自己紹介、そして、それは自己紹介にとどまるのではく、わたしたち自身のアイデンティティーにもかかわることであること、さらに神の働きは協働によってなされることを聴きました。今日は、教会そのものについて、教会とは何なのかを聴きたいと思います。皆さんは、教会と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。屋根に十字架がある建物、ステンドグラスに飾られた窓を思い浮かべる方もいるでしょう。キリスト者だったら建物ではなく、イエス・キリストを救い主、主と信じる人々の集まりというかもしれません。パウロは、まず「神の教会」と言いました。教会は誰のものだろうか。牧師のもの?執事のもの?いや、バプテストだったら教会の仲間みんなのものと答えるだろうか?しかし、教会は神のものだと伝えます。神様の所有です。建物や土地もそうでしょう。しかし、それ以上に、集う一人一人が神様のものだと私たちは聴いています。その言葉を聴いてどのようにお感じになりますか。それは困る。わたしはわたし自身のもの、わたしの人生はわたしのもの。そう感じるでしょうか。確かにわたしたちは、キリストと出会うまでそう考えていました。しかし、今、この自分の思うところに従い、望むところを実現し・・と自分を真ん中において生きる生き方は、わたしたちを高慢にしたり卑下させたり、つまり束縛するものであることを知っています。世の中に不和をもたらし、争いを起こし、差別を生み出すことを知っています。そのような私たちを解放してくださった方が神の子イエス・キリストです。第一コリント6章20節に「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」とあります。わたしたちを解放はただでもたらされたのではない。犠牲の代価が支払われなければならなかった。なぜなら、自分の人生はわたしのものという生き方は神の計画に真っ向から反対する罪の生き方であったからです。そこで神様は御子イエスを、罪のない方を人として生まれさせ、彼が身代わりに裁きを受け、代価を払ってくださったのでした。そして、その出来事を信じる信仰によって私たちは神の子とされ、神の教会に加えられたのです。だから、教会は、あなたは神のものなのです。すでに申しましたように神の所有とされることは、自由を奪われ、支配されることではありません。どのようなことがあっても神のもの、神の愛に囲まれ、包まれるものとされたということです。事実、コリントの教会はいろいろと神様を悲しませる問題を抱えていました。パウロが手紙を書いたのも、そのような教会を正し、助けることが目的です。しかし、パウロは、どんなことがあろうと神様はご自分の教会を捨てることはない、どんなことがあっても神の教会と言い続けてくださることを知っていました。だから、「コリントにある神の教会へ」とためらうことなく書くことが出来たのです。さらに驚くべきことが2節の後半に書かれています。「召されて聖なるものとされた人々へ」と呼びかけているのです。「聖なるもの」。清い者。でも、今申しましたようにコリント教会には争いがあり、不道徳があり、混乱がありました。パウロは、それを知らなかったのでしょうか。もちろん知っていました。それでは、皮肉を込めて“聖なるもの”と書いたのでしょうか。そうでもありません。ここでいう「聖」とは、“なった”聖ではなく“された”聖です。“なった”聖とは、自分で清くなり、獲得した聖です。そして、聖書を通して神様はわたしたちが自分では絶対に聖になることはないと語っています。神様によって“された”聖です。現実は争いなどがある。しかし、神様は、もう罪を贖い、ご自分のものにしたからあなた方は聖なるものだとおっしゃるのです。だから、この聖は外面の事を言っているのではないことが分かります。もちろん内面、心の中も聖から遠い。しかし、やがてあなた方を本当に聖なるものにする。罪の力から、存在から解放し、自由にし、神のかたちに造られた私たち、その神のかたちを完全に回復するとの約束が、この言葉に含まれています。また、聖とは特別な目的に取り分ける、区別するという意味があります。出エジプト記20章8節(口語訳)に「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。安息日は、週の終わりの日、土曜日のことです。この日を聖とせよとはどういうことかというと、安息日は他の日と違っていわゆる清い、特別な日だということではありません。神を礼拝する日として区別するという意味です。幕屋や神殿で使われる道具も聖なるものと言われます。それは、他の事には用いない、区別された物、神様に捧げられたものという意味です。ですから、教会が聖とされたものだということは、神様によって区別された、神様に捧げられたものだということです。教会は、教会に集うわたしたちは神様によって贖われ、決して清くない、清さから遠いものであるけれども神様と共に歩む者として区別され、神様の子として区別され、どんな時も大丈夫、神様の導きと保護を頂く者として区別された。そして、やがて新しい体を与えられて罪から解放される者とされているのです。だから、ローマの信徒への手紙12章1,2節でパウロは語ります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなた方はこの世に倣っては成りません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」わたしたちは神の所有です。だから、体を、つまり人生を神様に捧げましょう。お任せしましょう。神の導きに信頼しましょう。強さと大きさを良しとし、それにあこがれ、それを得ることが幸福だというサタンのごまかしに耳を傾けないようにしましょう。人類はエデンの園で善悪を知る木の実を食べました。何が善か、幸福かを神様から離れて考えるようになりました。しかし、立ち帰りましょう。何が善いことで神様に喜ばれ、完全なことであるかに思いをいたしましょう。そしてパウロは、「いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに・・召されて聖なるものとされた人々へ」と語りかけています。ここでも孤立が排除されています。人々と共に召されたのです。仲間がいるのです。そして、仲間とともに祈り、共に歩むのです。あなたは孤立していません。教会は、あなたと共にいます。

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