2月14日(日) ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅵ 第一コリント 1:10-17

「ああ、神の教会よ!」とのテーマでの七回目のメッセージは1章10節から17節からです。カギになる言葉は、「固く結び合う」ということです。パウロは、ここでコリントの教会に固く結び合うことを励ましています。一つの事実がありました。それは、コリントの教会には派閥争いのようなことがあったということです。それぞれが勝手なことを言って仲たがいしていたとあります。ここで言う勝手な事というのは、誰がすぐれた説教者か、牧者かということを議論することです。それがもとでグループが出来て仲たがいしていたというのです。確かに11章19節には、「あなた方の間で、誰が適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません」とあります。でも、ここで言っているのは真理が明らかになるための議論のことです。口語訳では仲間争いではなく分派と訳されていますが、それぞれ信じるところを述べ、その意味で分派があって、でも、絶対に自分が正しいのだと頑固に主張することなくお互いに議論をして真理を探し求めることを言っています。だから、分派の方がいい訳です。1章で言っているのはそのようなことではなく、かたくなに自分の立場を主張することです。ある人はパウロに付くと言っていました。コリント教会はパウロの働きによる教会です。だから、初代宣教師パウロに付くという人たちでしょう。アポロ派がありました。雄弁と知的、哲学的なメッセージを好むグループです。ケパ派がいました。ケパとはペテロです。おそらくユダヤ人であることを誇る人たちだったか、あるいはペテロを第一の使徒としてパウロを下にする人たちだったと思われます。キリストに付くという人たちは神秘主義者だったのか、あるいは世におられたキリストを知っていることを誇りにしている人たちだったと思われます。いずれにせよ真理を求めての議論ではなく、平たく言えば好き嫌い、好みのようなレベルでの事柄でした。先日、ある人たちと話していた時に現代のレジェンド説教者は誰だろうかという話題になりました。誰はまだそこまで言っていないとか、この人はレジェンドだとか・・。また、牧師が変わって前の牧師の方が良かったとか、今度の方がという人の話を聞いたことがあります。いい気持がしませんでした。確かに、自分に聴きやすい、理解しやすいメッセージをしてくれる先生はいるかもしれませんが、それは心の中にしまっておいた方がいいと思います。なぜなら、どの説教者も神が選ばれた、神の召命を受けた説教者です。そして、彼は独立した自分の力、力量でメッセージや牧会をしているのではなく、神の同労者として、神様に用いられている人なのです。3章4節から7節、9節をお読みしましょう。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。・・わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」それぞれに役割があります。開拓する人、若い教会を導く人、教会から新たな教会を生み出す人など。それぞれ与えられた場所と時に賜物を用いて奉仕します。時期は違うかもしれません。一つの教会であれば、ある牧師が招聘され、そして次の牧師が招聘されるでしょう。そして、その二人の牧師は違う時期に、違う状況の中で牧会しますが、それでも神のために力を合わせて働くものなのです。ちょうど植える人、水を注ぐ人がいるように。しかし、成長させてくださるのは神、大切なのは神なのです。多摩みぎわ教会もいつか新しい牧師を迎えるときが来るでしょう。その時、前の牧師の方がとか、今度の牧師の方がとか言うのはやめましょう。いずれも神様が送って下さった牧師であることを知りましょう。また、他教会から仲間になって下さった方、下さる方も同様です。それぞれの牧師、説教者を感謝しましょう。それから、誰にバプテスマを授けられたかを大切にする人がいます。今日の聖書箇所を読みますと、分派のようなグループがあることと共に、それと関連しているかもしれませんが、誰にバプテスマを受けたかということでお互いに優越感を持ったりしていたようです。思い出として大切にするのはいい事です。しかし、いわゆる名の知れた牧師にバプテスマをされたことを誇り、優越感を持つ必要はありません。そもそも、バプテスマは教会が施すものです。わたしたちの教会でバプテスマを受けた方は、わたくしが、「多摩みぎわキリスト教会は、誰々さんに父、み子、聖霊の名によってバプテスマを施す」と宣言したことを覚えていると思います。石井が施すのではないのです。牧師は、教会の権威を、委ねられて実行するだけなのです。パウロは、17節で、なぜこのような分派のようなこと、誰にバプテスマを受けたかを誇ったりするようなことが起きたかを明らかにしています。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」つまり、コリント教会の人たちは福音そのもの、十字架そのものから目線がそれがちだったのです。ローマの信徒への手紙10章9節、10節にあるように「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」これに尽きるのです。わたしは聖霊によって導かれ、聖書を読み、教会に通い、罪を示された。聖霊によってイエスが救い主であることを示され、イエスの死がわたしの罪の為であることをしめされた。聖霊によって私は押し出され、教会に信仰を告白することが出来た。今、聖霊によって教会に結ばれ、教会で信仰生活をしている。ここに立つのです。その出来事の中であの牧師、あの主事、あの人、この人が役割を果たしてくれた。その人たちは、全く意識していなかったし憶えてもいないかもしれない。だけれど、神様はこの人たちを用いて私を導いてくださったのだ。だから、その一人一人に私は感謝する。しかし、その感謝は究極的に神への感謝だ。神様が導いてくださった。神様がこれらの人を用いられた。だから、わたしはこれらの人につくのではなく、神様に付くのだ。神様に従うのだ。この事をつかんでいれば、分派を作ったり、その為に仲たがいしたりすることはあり得ません。そうではなく、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合う仲間、教会となることが出来ます。

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