2月21日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅶ 第一コリント 1:18-2:5

今日は、少し長い個所をテキストとしました。この個所から教会に委ねられている福音がどのように伝えられていくのかを読み解きましょう。イエスは弟子たちに「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ 16:15)と言われました。すべての教会は、そして私たちの教会は、この使命を担っています。すると、わたしたちは思うのです。どうやってイエスの救いを証明しようか。どのように説得しようか、説き伏せようか、理路整然と説明して説得するのだろうか、しかし科学的に証明など出来ないしと。しかし、パウロは言います。そうではない。知恵によって福音に触れることはできないのだ。調べればわかるということではないのだ。自分の知恵で神を知ることはできないのだと。事実、学問として聖書を、キリスト教を研究している人がみなキリスト者かというとそんなことはありません。私などよりもはるかに知識はありますが、それでも信じることはない人はいくらでもいるのです。むしろ、知的に考えるならばイエスの十字架がわたしの罪のための身代わりの死であり、死んだイエスが三日目に復活されたなどということは、愚かにしか思えないと今日のテキストは言っています。しかし、神様は、その愚かさを用いて人を救うことにしたと言っています。21節に「神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです」とある通りです。宣教は、宣言と言い換えても間違えではありません。説き伏せるのでもない、説明するのでもない、宣言する。こうだ、と言う。それだけです。しるしを、証拠を見せてください。それもなし。宣言するだけです。後は神様の出番。証拠を欲しがる人であろうが、知的に理解したいという人であろうが、神様が召す。つまり、その人は神様の働きによって信仰に導かれるのだということです。そのことを2章4節は語ります。新共同訳聖書では、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の召命によるものでした」とあります。ちょっと分かりにくいのではないでしょうか。リビング・バイブルを読みますとこう書かれています。「また、わたしの説教も、説得力のある雄弁な言葉や人間的な知恵にはほど遠く単純そのものでした。しかし、その言葉には神の力があって、聞く人々は、それが神の言葉だとわかったのです。」こちらの方が分かりやすいのではないでしょうか。パウロは確かに雄弁な人ではなかったと言われています。また、難しい論理によって説明することもなかった。単純そのものだった。しかし、人間世界では雄弁や論理性を尊重し、雄弁に、論理的に説明されると納得するものですが、神様は、そのような方法を用いられない。単純な福音のお話を用いられる。そこにこそ神様の力が働き、人を信仰に導くのだというのです。なぜか。誰も誇ることがないためです。知的な探求によって神様が分かり、救いが分かるのなら頭のいい人だけが救われるということでしょう。そして、その人は、自分の知力は大したものだと誇ることが出来るでしょう。事実、今日のテキストの背景には、神様の奥深い教えはグノーシス、つまり特別な人に与えられる知恵によってとらえることが出来るのだという、当時だんだんと広がり始めていた考え方への批判があります。そうではないのだ。パウロは1章26節から28節に、コリントの教会の人たち自身、人間的に見て知恵あるもの、能力ある者が多かったのではなく、むしろ逆だったと言います。それは、能力のある人は救われないということではなく、神の働きはそのようなものを必要としないということを言っているのです。では、わたしたち教会に集う者はどうすればいいでしょうか。教会は、わたしたちは、どのようにして福音を伝えればいいのでしょうか。バプテスト教会では、説教は牧師がするとは限りません。誰でもメッセージを取り次ぐこと、福音を語ることが出来ます。しかし、誰でもと言っても、やはり賜物が与えられていればということになるでしょう。メッセージを語りたい思いがある人は、ぜひその思いを大切にしていただきたい。学びの機会もご紹介します。いっぽう、自分には、その賜物はないという方はメッセージを取り次ぐ人を支えて頂きたい。どのように支えるのか。わたしたちの教会では、基本的に牧師がメッセージを語ります。来年度からは第二日曜日は主事が語ることになります。牧師や主事のために祈って頂きたい。神様の言葉を語ることが出来るように、その準備に聖霊様が働いてくださるように。ぜひ祈って頂きたいのです。また、証しがあります。神様の言葉が生活現場で、このように働いた、力をもったという体験談です。これも宣言ということが出来るでしょう。証し者を支えましょう。それから、耳を傾けて聞くこと。これも支えることです。神様は、語る者と聞く者を集めて礼拝を作り上げて下さっています。あなたが一生懸命に聴いてくださることは、あなた自身の為であるだけでなく、そのこと自体が伝道なのです。それから、既にこのシリーズのメッセージでお話ししましたが福音を生きることです。神様に聴き、祈り、導きを求め、それに従う歩みをすることです。つまずいたり転んだりすることがあるでしょう。でもいいのです。そこから立ち上がって歩み続ければ。家族や友人の救いを熱心に祈ることです。1月の証しを覚えておられるでしょうか。感動的でした。証し者の娘さんは12歳で信仰をもったのでしたね。小学校6年生でしょうか。学校で七夕の時、短冊に願い事を書くという学習項目がありました。「みんなが神様大好きになりますように。」そう書きました。友達を教会学校に誘っても来てくれない。神様のことを話しても分かってもらえない。自分の部屋で何時間も伝えることが出来るように祈っていたとのことでしたね。ずっと吹奏楽部で活動をしていました。でも、発表会や重要な練習がある時以外、教会を休むことは一度もなかったのでしたね。就職先はいくらもあったけれど、キリスト教保育をしっかりしているところにということで香港の日本人幼稚園に就職したのでしたね。彼女は、頭もいい人ですが、論理的に説得しようとしたのではなく、愚直に神様のすばらしさを語り、祈り、そして、自分自身神様を第一として歩んできたのでした。そして、これからも歩んでいかれるでしょう。そんな彼女を神様が用いないはずがありません。祝福しないはずがありません。教会は、イエス様を伝えるようにと神様に委ねられた唯一のものです。いわゆるキリスト教国に委ねられているのではありません。ミッションスクールは、伝道の働きをしますが、教会そのものではなく、生徒たちを教会につなげる働きです。教会は、この任務であり特権であるイエス様を伝える働きをゆだねられています。今日のメッセージを聴いてよかった。愚直でいいんだ。説得するのではないんだ。あまり上手に話せなくてもいいんだ。話す機会がなければ、キリスト者として喜んで生きれば、また悲しいことがあったら神様の前に悲しみ、祈る。それが愚直なメッセージなんだ。ああ、神の教会よ!神様、どうぞ、私たちの教会を、わたしたち一人一人を用いてください。

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