2月28日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅷ 第一コリント 3:1-9

今日は、3章1節から9節を読みます。第一にパウロによるコリント教会の現状分析、第二に教会の成長ということについて神様に聴きたいと思います。聖書によれば、人は二つのグループに分類されます。それは、性別ではありません。(ジェンダーについては、色々と思うところがありますので、表現が難しいのですが)奴隷と自由人、あるいは雇用者と被雇用者でもありません。東洋人と西洋人でもありません。神に回復された人と、まだ回復されていない人です。神に回復された人とは、神様と無関係に、無視して生きていた在り方を悔い改め、イエス・キリストが神が備えて下さった救い主、仲介者であることを示され、信じた人です。そうでない人はまだ回復されていない人です。この中には、これから回復されるだろう人と、最後まで神様の和解の手を拒んで回復されない人がいます。1節では、神のもとに回復された人を霊の人と言っています。神様の霊によって生まれた人ということです。ヨハネによる福音書1章12節、13節に「しかし、言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とあります。イエス様は、この誕生のことを同じヨハネの福音書3章5節で霊によって生まれると言われています。キリストを救い主、自分の罪の贖いと信じる人は、全て霊の人です。しかし、イエスを救い主と信じることは、今読みましたように、まさに生まれること、キリスト者としての、神の子としての誕生です。大人の状態で生まれてくる人はおらず、赤ちゃんとして、無力な人、全てのことをしてもらわなければならい者として生まれてきて、それから食べること、話すこと、トイレットトレーニング、人とのお付き合いなどなど、色々なことを学び、経験して大人になり、一人前になるようにキリスト者も生まれて終わりではなく成長していきます。ところが、パウロはコリント教会のありさまを見て、いつまでたっても肉の人、乳飲み子にとどまっていると言っています。3節では、「ただの人」と言っています。肉の人とは、この場合、確かにイエスを信じて救われているが、まるでそうでないかのようにどちらが強いとか、大きいとか、そのことで自慢したり卑下したり、誰につけば得かとか計算したり、つまりキリストにある関係を土台にするのでなく人間的なものを土台にして生きているキリスト者のことです。岩波訳を見ますと、「人間の思いに従って歩んでいる」人のことです。キリスト者だけれど、外から全くそうは見えない人です。コリントの教会について、派閥争いがある所に、そのことを見ることが出来るとパウロは言います。グループを作って妬みや争いが絶えないと言っています。ここで、妬みと訳されている言葉は、元々は熱意とか熱心とかを表す言葉からきています。彼らは熱心だったのです。熱心に、わたしはパウロに、またはアポロに付くと主張していました。信仰の熱心は、時として教会に問題をもたらすことがある事を知ります。ローマの信徒への手紙10章2節には、「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」とあります。これは、教会内部の人ではなくユダヤ人たちのことを言っていますが、同じようなことが教会の中にも起こりうるのです。聖書をどのように読むかには多様性があります。今は、コロナ・ウイルスのために開くことが出来ませんが水曜日に行っていた祈り会では、同じ聖書箇所を読んで示されたこと、思うこと、何を聴いたかを分かち合っていましたが、実に様々な言葉を聴くことが出来ました。ここで、それはおかしいとか、間違っている、ここはこういう意味だと主張しあったらどうでしょうか。楽しいはずの聖書の学び、分かち合いが殺伐としてものになってしまいます。かといって、聖書は自分勝手にどう読んでもいいというものではありません。ペトロの手紙二1章20節に「何よりもまず心得て欲しいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」とある通りです。文脈から切り離された勝手な読み方をすることにより異端が生じることは歴史が示す通りです。わたしたちの教会には信仰告白があります。誰かが決めたのではなく、みんなで、最低限、この信仰をベースにしようと確認したのです。それを守りつつ、自由に神様に聴き、聴いたことを分かち合い、喜び合い、時には健全な議論をする。これが大切です。さて、キリスト者になったばかりのときは誰でも乳飲み子です。ヘブライ人への手紙5章11節から6章2節のところには、信仰の初歩として悔い改め、神への信仰、バプテスマ、復活、裁きが挙げられています。この手紙でもそれらを乳と言っています。そして、いつまでも乳だけを飲むのでなく、硬い食物を食べられるよう、成熟を目指して進みましょうと励ましています。固い食物とは何か。乳が、もっぱら神様の目から見た自己理解と、神様との関係に関してものものであるに対して、硬い食物は他者との関係における成長ではないでしょうか。自分を愛するように人を愛すること、愛に伴う犠牲を惜しまないこと、人々の誤解や無理解を忍耐すること、そして福音を伝えること。教理的に進んだものを知るということもあるでしょうが、むしろ実践的なキリスト者生活を建てあげていくことなのではないかと思います。また、ヘブライ人への手紙5章14節には、「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」とあるように、善悪を見分ける感覚を経験する、つまり日々の生活の中で神様に従う、神様はこのようにしてほしいだろうというところの感覚を日々の経験の中で養われていくときにいわゆる固い食物をこなせるようになるのでしょう。そして、成長させてくださるのは神だということを覚えましょう。今日のテキストで、教会は神の畑、神の建物に例えられています。わたしは農村地帯に住んでいたことがありますが、農家の人は土を起こし、肥料をまき、種を蒔き、水をやり、追肥をして、そして収穫に至ります。建物も、まず土台、基礎を作り、骨格を組み立て、壁を作り、内装を作ります。順番があります。過程があります。神様が、一歩一歩導いてくださいます。個人的な学びと祈りは大切です。その中で、直接神様に語りかけられることもあるでしょう。でも、同時に人が用いられます。パウロが、アポロが、それぞれの牧師・説教者が用いられます。信仰の友が用いられます。ダビデが敵であるサウルの存在によって神様に深く信頼することを学んだように敵すらも用いられます。ヨブがより深い神理解に進むためにサタンすらも用いられました。そして、「あなた方は」神の畑、神の建物なのだと言われていることに注意してください。毎日のディボーションや祈りによって個人として成長させて頂きます。と同時に、むしろ会衆として、群れとして、教会として育てられていきます。そのことを覚えましょう。クリスチャンの成長の場、それが教会なのです。そして、成長の中に祝福があるのです。

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