2月7日(日) ああ、神の教会よ! Ⅴ 第一コリント 1:4-9

 

「ああ、神の教会よ!」というテーマでコリントの信徒への手紙一を読み進めていますが、今日は1章の4節から9節から神様に聴きましょう。教会を支えるものは何か、何が教会の力なのか、そんなことを考え続けていきたいと思います。今日の聖書箇所でまず目に入るのは「感謝しています」というパウロの言葉です。この教会に様々な問題があったことはすでにお話ししたと思います。その中には、由々しい道徳的な問題もあり、パウロが感謝していると述べることには違和感も感じます。パウロは本心から感謝していたのだろうか。なぜ、感謝ということが出来たのだろうか。そのことを考えるとき、教会というのは感謝を軸にした交わりであることを知ることが出来るのです。二つの点から述べましょう。まず、パウロはコリントの教会の人たちが「キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて・・感謝している」と言っていることです。どこに出しても恥ずかしくない、非の打ちどころのない教会だから感謝しているのではない。ましてや、パウロを尊敬したり、経済的な支援をしてくれているから感謝しているのでもない。そうではなく、キリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて感謝しています。つまり、彼らが罪を認め、イエス様を救い主として知り、信じて救われた、罪を赦され神の子とされた、そのことを感謝しています。だから、信じたということで彼らにも感謝ですが、それ以上に彼らを救われた神に感謝しているのでしょう。「わたしの神に」感謝しているという言葉がそのことを示しています。わたしもイエスによって救われた。あなたがたもイエスによって救われた。神様によって救われた。そこがわたしたちの共通点。交わりの軸。その軸は、どんな問題によっても揺るがない、いや、神様は揺るがせないはずだ。そんな思いが込められています。そう、教会は趣味のグループや、気の合う人たちの集まりではありません。罪人である私がイエス様によって救われた、というその共通点が土台となる集まりであり、何のための集まりかというとそのことを感謝し合う、すなわち礼拝する集まりなのです。ここをしっかりと捕まえておきましょう。そうしないと、あの人は良く分からない、あの人は嫌だ、というようなことになって教会は成長するどころかバラバラになってしまうこともあるのです。一緒に仕事をして利益を上げ、それを分配するという会社のような組織ならお互いいやでも我慢します。しかし、教会はそのような集団ではないので、イエス様に救われた、ということだけがお互いを結び付けるものなのです。でも、パウロはそれだけの意味でコリントの教会を感謝したのではないと思います。確かに修正しなければならないこと、使徒として叱責しなければならないこともある。しかし、彼らは主の教会、彼らの頭はイエスご自身なのだから必ず整えられていく。今の問題も、むしろ教会を建てあげるために用いられていくはずだという確信があります。つまり、感謝を前取りしているのです。ローマの信徒への手紙8章28節に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」とある通りです。また、今日のテキストの8節には「主も最後まであなた方をしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのないものにしてくださいます」とあります。9節にいう“神の真実”が教会を支える。だから、教会にはいつも何らかの問題があるかもしれないが揺らぐことはないのだ。インマヌエルの主、神が共にいてくださるのだ。だから、感謝を先取りするのだ、ということでしょう。第二に5節、教会はあらゆる言葉、あらゆる知識において豊かにされていく交わりです。この言葉には、わたしたちに求められていることが示唆されています。イエス様は、地上に弟子を残して天に帰られるとき次のようにおっしゃいました。マタイによる福音書28章18節から20節です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」一言で言うと、弟子として歩みなさい。成長し続けなさいということです。聖書が伝えていることを読み取り、考え、咀嚼するといった、いわば知的な活動、言葉、知識について豊かにされていくことが求められています。そして、咀嚼したことを実際の生活に落とし込んでいくときに豊かになっていきます。ゴールはありません。豊かになり続ける。それは、知的に、経験的に豊かになると同時に、そのことを土台としてあなたの人生が、教会が豊かになっていくことです。教会は、豊かさから豊かさへと歩む交わりです。第三に、賜物を捧げ合う交わりです。7節です。お互いに豊かさに進み、教会を建てあげていくために一人一人に与えられた賜物を捧げ合うのです。賜物はタレントとか、得意なこととか、持ち味とか、そんな風に言い換えられると思います。わたしたちの教会、今はなかなか集まることが出来ませんが、コロナの前は毎週礼拝の後、食事を共にしていました。その食事を作る賜物、配膳の賜物がある人もいました。食事の後、頼まれるでもなく外のお花に水をあげに行く人、いらない葉っぱを落として植木を整えてくださる人、建物の修理をしてくださる人、掃除が上手な人、奏楽や習字、教会学校のリーダー、人の話を聞くのが上手な人、いつも祈っておられる人、メッセージする人と、数えても数え切れません。誰にでも賜物があります。それを照れることなく、自慢することなく神様に捧げることによって教会は整えられていきます。日本人は、何か遠慮したり、自分の賜物を過小評価してしまうところがあるかもしれません。それは、教会では美徳にはなりません。大胆に神様に捧げましょう。第四に、教会にはいろいろな希望があるでしょうが、イエス様がまた来られる、この事を希望とする交わりです。7節に「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」とある通りです。わたしたちの教会の信仰告白にあるように、イエス・キリストは文字通り再臨されます。その時には、地に平和がもたらされると共に、先ほど既にふれましたように、そして8節にありますように、主が最後までわたしたちをしっかり支えて、そしてついに、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのないものにしてくださいます。わたしたちは、この希望を抱いて教会に連なっているのです。そして、最後に9節で確認しましょう。わたしたちが、この教会に連なっているのは神の真実による。真実の神によって、わたしたちは主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。ですから、わたしたちの交わりは人と人との交わりですが、その人と人の交わりである教会でイエス・キリストとの交わりが実体化するのです。それは、既にお分かりになったように問題がない理想的な状態がいつもあるということではなく、問題が生じても、キリストにあって、お互いがキリストに救われ、この教会に召された者同士である事を思い、そのことを土台としてよく話し、よく祈り、神様の示す道を進んでいくということです。

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