2022年01月23日 ライブ礼拝 神の計画と私たちの日常生活  出エジプト 1:15-21

今日は、二人の市井の人のお話です。助産婦の女性です。何歳くらいの人だったのか、21節に「神は彼女たちにも子宝を恵まれた」とありますので、そんなに年を取った人ではなかったでしょう。むしろ、若い人だったかもしれません。彼女たちは、神を畏れる人でしたから、子どもが神様の計画の中で生まれていることを知っていました。そのような神の計画に直接かかわる仕事であることを誇りに思っていたに違いありません。毎日忙しく、しかし平穏に生活していました。そんな彼女たちに、その平穏を脅かすような命令がパロ、エジプトの王様から出されます。生まれてくる子どもが男であったならば殺せという命令です。なぜ、このような命令が出されたのか。それには、次のような背景があります。ヨセフが兄弟によってエジプトに売られ、不思議な神の守りと導きによって奴隷の身分から宰相にまでになり、エジプトの王や国民から尊敬されていました。そのような中で、ヨセフの家族たちが飢饉を避けてエジプトに移住したのでした。この時のエジプト王朝はエジプト人の王朝ではなく、ヒクソスという異邦人の王朝だったのです。異邦人同士ということもあって、当時の王はヘブライ人にも友好的だったと思われます。しかし、ヒクソスの王朝は倒され、エジプト人の王朝になりました。彼らは、ヨセフのことなど知りません。何の恩義も感じていません。むしろ、どんどん子どもが生まれて人口が増えるヘブライ人を恐れました。前の王朝を倒して国を興した自分たちですから、また自分たちも倒されるのではないかという恐怖心があったのです。だから、10節にあるように「一度戦争が起これば、敵側について我々と戦い、この国を取るかもしれない」という言葉が王から出たのです。これは、王だけでなくエジプト国民みんなの思いだったと思います。さて、そのような背景で、助産婦たちは男の子だったら殺してしまえという命令を受けたのでした。人生最大の危機です。命令を出したのはエジプトの王、それも王の気まぐれによる命令ではなく、もっともだと思える理由をともなう命令であり、国民と思いを共有する命令です。もし命令に背けば、男の子ばかりでなく自分の命もどうなるか分かりません。ここは、従うしかないと思っても理解できる状況です。恐ろしかったでしょう。祈ったことでしょう。「神様、どうすればいいですか。わたしはあなたの御心を知っています。でも、同時にパロが怖い。どうか助けてください、知恵を与えてください。」彼女たちが命令に背いて男の子を生かしていることが、すぐに王の耳に入りました。王は、二人を呼びつけて詰問します。「どうしてこのようなことをしたのだ。おまえたちはおとこの子を生かしているではないか。」この時、神様は助産婦たちに言葉を授けました。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」前々から準備していた答えではありません。マタイ10章19,20節のイエス様の言葉を思い出します。「引き渡された時は、何をどう言おうかと心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って下さる父の霊である。」そのようにして、二人は神様によって守られ、生活においても祝福を受けたのでした。本当に困ってしまうこと、試練や困難も神様の御手の中にあり祝福に変えられる。それはそれで一つの完結した神様のメッセージなのですが、さて、今日の話はここからです。二人の助産婦は生かしておいた男の子がモーセであり、やがて自分の民族を奴隷状態から解放するために神様が用いられる人とは露ほども知らなかったでしょう。モーセが実際にパロと対決し、解放に導くのは少なくとも50年60年後ですから、その時には、もう二人は生きていなかったかもしれません。しかし、彼女の信仰の行いがなかったらどうでしょう。モーセを用いてヘブライ人たちを解放し、約束の地へ旅立たせるという神の計画はどうなっていたでしょう。もちろん、神様は他の人を起こすことがお出来になりますし、そうされたことでしょう。けれども、神様の最初の計画はおじゃんになってしまうことになりました。二人は知らなかった。ただ、日常生活の中で、困難や苦難がある日常生活の中で、恐れながらだったでしょう、不安に満たされたことでしょう。でも、祈り、そして、ここもポイントだと思うのですが、聖書は助産婦たちが孤立していなかったことが伝えられています。シフラとプア、二人だったのです。二人で、信仰を励まし合っていたのです。そのような中で、聖書はさらっと書いていますが、彼女たちも人間ですから恐れも不安もあった中で信仰を守り通したのです。そして、それは個人の生活の事柄、信仰の事柄でありながら、実は神様の大きなご計画の中に組み込まれている出来事だったのです。ムーディーという名前を聞いたことがあるでしょうか。彼は、19世紀に生きた人です。性格は粗暴で乱暴な人だったそうです。17歳のときに家出してボストンに行き、生活のために靴屋に就職しようとします。その靴屋に勤めるには、四つの約束をすることが必要でした。その四つ目に毎週日曜日教会に行くことというのがありました。仕方なしに教会に行きます。ここで、エドワード・キンバルという人に出会い、彼の熱心な伝道によって救われ、やがて彼はムーディー聖書学院という神学校を作る事になります。日本人では、中田重治などが卒業しています。現在、学生数は3,000人を超える大神学校になっています。さて、わたしが思うのはキンバル先生の事ではなく、靴屋さんの事です。彼は、まったくの名もなきクリスチャンでした。ウィキペディアを見ると、名前さえ伝えられていません。ただ、神様に示されたのでしょう。決められた所に宿泊する、夜街に出ない、娯楽にふけらないなどという約束をさせるのですから、ムーディーのような乱暴者を積極的に雇っていたのかもしれません。彼、あるいは彼女かもしれませんが、ただ、神様に示されてそのような約束のもとに人を雇っていたのです。まさか、ムーディーが後に宣教者として神様に用いられ、大きな神学校を設立し、世界中に牧師、宣教師を送り出すようになるとは思いもしていなかったでしょう。ただ、自分の生活の中で、小さいと言えば小さいその世界の中で、苦闘しながら、悩みながら神様に従った人でした。しかし、神様の大きな物語、この場合にはムーディーという、神様が用いることにされた一人の出発点として用いたのでした。皆さんの生活も同様です。今、何の意味もないと思われるようなことが、あるいはほんの小さな行いが、神様のご計画の中でどんな大きな意味を持っているのかわかりません。いや、必ず大きな意味を持っているのです。そのことをおぼえたいと思います。小さなわたしたちをそのように用いられる神様に驚きたいと思います。そして、助産婦たちのように励まし合いながら、自分の現場を生きたいと思います。そのことは、神様の大きなご計画の中の事柄だからです。

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