2022年02月06日 ライブ礼拝 真ん中に立ちなさい マルコ 3:1-6

イエス様は、会堂にお入りになりました。この会堂というのは、音楽堂とか演舞場とかではなく、ユダヤ教の教会と言いますか、礼拝の場所です。そこに片手の萎えた人がおりました。端っこの方にいました。目立たないように、身を隠すようにして、そこにおりました。普段、人々は彼のことなど見向きもしません。存在そのものを無視、そんな感じでしたが、今日は違いました。安息日の礼拝の日でした。ユダヤ教の決まりで、みな労働を休んで体を休め、精神を休める。そして、神様を礼拝して、みんなで喜び、賛美し、感謝して、自分が神様に愛されていることをもう一度思い巡らして、そこから力を得て、明日からの日々に備える。そういう日でした。でも、イエス様の時代の人々は、そのような安息日の本来の目的と意味を忘れてしまっていました。働いてはいけない。それでは、どのくらいの重さのものまで持つのはいいのだろう。家からどのくらいの距離まで歩いていいのだろう。はたまた、安息日だから人をいやしてはいけない。お医者さんは治療してはいけない。そんな、見当違いな意味がたくさんつけられている日になってしまっていました。2節を見ると、会堂にいた人々も、イエスが安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、神のことばを聞くとか、祈るとかより、そんなことに心を奪われ、好奇心をもって注目していたのです。いや、中には好奇心ではなく、イエスを訴える口実を得るためにイエスが癒すかどうかに注目していたのです。イエスは、そのような人々の思いをご存じでした。ご存じの上で、手の萎えた人にこう言われました。「真ん中に立ちなさい。」彼は、戸惑いました。恐れました。だって、今まで人々の真ん中に立ったことなど一度もありません。むしろ、端っこを選んで生きてきた人です。さらにイエスは、人々に言いました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」自分が話題になったことなど一度もない人が話題の中心に据えられています。もう少し、この手の不自由な人のことを考えてみましょう。当時、病気であるとか、体が不自由である事は、罪の結果である。本人の罪か、それとも親の罪か。因果応報思想です。悪い結果は、悪いことをしたからだ。良い結果は、よいことをしたからだ。このように考えられていた時代、体の不自由な人が会堂に、礼拝に行くことはまずなかったでしょう。むしろ、自分はそこに行く資格がない、そこにいてはならない汚れた者だ。そんな風に考えていたのだと思います。でも、この人は会堂にいた。片隅に、人目につかないように、気づかれないようにじっとして、でもいた。なぜでしょうか。イエスが来る事を聞いたからです。罪びとの友と自らおっしゃるイエス。律法を守らないから、守れないからと差別されていた人に全くためらわずに近づき、飲食を共にするイエス。そして、すべての人が神に愛されている。すべての人が神のもとに帰ることが出来ると説くイエス。会堂に行くという危険を冒しても、どうしても行かざるを得なかったのでしょう。でも、まさか「真ん中に立ちなさい」などと言われるとは思わなかった。人々の注目を浴びることになるとは思わなかった。逃げ出すこともできました。「イエス様、勘弁してください。いじめないでください」と泣くこともできた。でも、彼は真ん中に立ったのです。イエス様の、耳には聞こえない声を、言葉を聞いたからです。「恥ずかしいことなど何もない。あなたは、真ん中に立ちなさい。勇気を出しなさい。わたしを信じなさい。」その声に励まされ、押し出されて彼は真ん中に立ったのです。人々は、意地悪な目で見ています。でも、立ったのです。イエスは、さらに言われました。「手をのばしなさい。」手をのばす?私の手は、萎えているのですよ。でも、彼は、のばしたのです。するとどうでしょう。彼の手は、まっすぐに伸びたのです。癒されたのです。さて、ここで私は、癒しの奇跡に注目したいと思うのではありません。イエスの言葉です。「真ん中に立ちなさい。」この言葉を聞いた時、わたしは思いました。自分は真ん中に立っているだろうか。皆さんにも同じ問いかけがあると思うのです。あなたは、真ん中に立っているだろうか。自分の人生の真ん中に。そして、自分の人生の真ん中とはどこだろうか。そんな問いかけがあると思います。わたしたちは、実は真ん中ではないところに生きているのかもしれません。何か、人はこうあるべきというものを気にして、男というものはとか、女というものはとか、そのようなステレオタイプに縛られていたり、本当にやりたい、このように生きたいというものがあるのだけれど世の目にはどう映るだろう、親の思いにそうだろうか。などなど。でも、イエス様は、真ん中に立ちなさいとおっしゃいます。そして、手をのばしなさいとおっしゃいます。本来のあなたの在り方で生きてみなさいとおっしゃいます。先ほど、自分の人生の真ん中とはどこだろうと申しました。自分の人生の真ん中は、神様と無関係にこうしたい、こう生きたいというところにあるのではなく、神とのかかわりの中で、祈りと導きの中で、神様に委ねられた自分の使命としてこうしたい、こう生きたい。そこにこそ、あなたの真ん中があるのです。もう一つ。信仰者として真ん中に立っているでしょうか。あなたのご家族は、友人は、職場の同僚は、あなたがクリスチャンであることを知っているでしょうか。ある時、こういう言葉を聞きました。「自分は、クリスチャンであることを知られないようにしている。もしかしたら、そのことは相手にとって不愉快かもしれないし、また職場とか学校では、そんなことを知らないでいてもらった方が仕事にも友達付き合いにもいいのだ。」違う!あなたは、真ん中に立てないだけです。イエス様が、真ん中に立ちなさいとおっしゃっているのに。マルコによる福音書8章38節で、イエス様はこのようにおっしゃっています。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしと私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」わたしたちは、キリスト者であることを隠すことなく、堂々と信仰生活をしましょう。レストランで食事をするとき、食前の祈りをしましょう。機会があれば、友人にキリストのすばらしさを語り、教会にお誘いしましょう。そのようなメンバーがいて初めて、教会は生き残ります。そうでなければ、この教会も今いる人で終わり。次の世代はありません。そして、イエスは、教会に福音をゆだねられたのです。真ん中に立ちましょう。イエスの前に立ちましょう。そして、人生を生き、また福音を証ししましょう。

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