2022年1月16日 ライブ礼拝 あなたは招かれています  第一コリント 1:9

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神は真実な方だと聴きました。真実とは、うそ偽りのないことです。大真面目なことです。神様は、大真面目な方です。大真面目にすべてのものを造られ、大真面目にあなたをこの世に生み出し、大真面目に私たちのことを考えてくださっている方です。歴史を通して大真面目なお方でした。アダムとエバが神を捨て、自分だけで、神と無関係に生きることを選びました。それが、彼らにとっても、彼らから生まれるすべての人、すなわち私たちにとっても、人間関係にとって、自然の世界にとっても悲惨な結果を生む選択だったことを聖書は示し、また、わたしたちは経験的に知っています。そんな私たちを神のもとに回復することについて大真面目でした。約束してくださったのです。救い主イエス・キリストを送るから、と。そのイエスはおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない。」(ヨハネ 14:6)つまり、イエスさまを信じることによって神のもとに帰ることが出来る。誰でもできる。まさに、招きのことばです。あなたを招いておられる言葉です。すべての人を招いている言葉です。イエスさまの物語を読むと、そのことがよくわかります。当時、誰にも相手にされなかった人たち、蔑まれていた人たち、親の因果が報いて病気になったのだと差別されていた人たち、どんな事情か身を持ち崩した人たちも主は排除されませんでした。どんな人でも近づくのを拒まれなかったばかりか、ご自分から積極的に近づかれました。招かれました。今も同じです。暗い過去のある人でも、誰にも見向かれない人でも、そして、道徳的な人も招かれています。ある時、一人の青年がイエスのもとに来ました。ずっと真面目に暮らしている人でした。彼は、どうしたら永遠の命を得られるのか、つまり、神のもとに帰ることが出来るのかと尋ねました。イエスは答えました。持ち物をすべて売り払って貧しい人に施し、従ってきなさい。彼への招きでした。この青年は、まじめで道徳的な人でしたが、やはり何といっても金銭、それが頼りだ、そういう人でした。金銭が神であったのです。それを改めなさい、そして従ってきなさい。そう招いたのです。持ち物を捨てるか捨てないかの問題ではなかったのです。残念ながら、この若者はイエスに従うことをあきらめて去ってしまいましたが、確かに招かれたのです。ニコデモという人も招かれました。民の指導者です。最初、彼はためらいましたが、のちにイエスに従うものとなっています。すべての人が招かれているのです。招くというからには、場所と言いますか、何かに招かれています。教会に来ないかという招きがあり、一緒に遊ばないかという招きがあり、いろいろな招きがあります。神様は、あなたを何に招かれているのでしょうか。「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」とあります。イエスさまとのかかわりに、交流に招かれている。それはどのようなことでしょうか。三つの側面があります。まず、キリストを救い主とするというかかわりに招かれています。すでに聞きましたように、イエスさまは神様のもとに帰る道となって下さいました。それは、罪のない神の子、イエスが私たちの罪を負って、その責任を引き受けて、裁きを受けてくださったということを意味します。十字架にかかって下さり、苦しまれ、死なれました。そして、三日目に蘇られました。罪の結果である死に勝利されました。もう大丈夫。あなたの罪は赦された。コリントの信徒への手紙二5章17節は伝えます。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。今までがどうであれ、今がどうであれ、イエスによって新しいものとされる。新しい出発をすることが出来る。このことに招かれています。それは、キリストと共なる歩み、イエスに導かれる歩への招きです。どんな時も、どんなことがあっても大丈夫。イエスは、あなたと共におられ、ともに重荷を負ってくださり、導いてくださるという約束への招き、そういう主との関係への招きです。イエスさまは、いわば遺言としてこういわれました。この世を去って天に帰られる時のことばです。絶対に言わなければならない、言い残さなければならない言葉として、こう言われました。マタイによる福音書28章20節です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」このことへの招きです。そして、イエスとの交流を基とする人との交流への招きです。「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイによる福音書22章39節のことばです。あなたを愛しなさい。それは、ナルシシズムに浸るということではありません。欠点だらけ、かけだらけ、でも、神様は、それを私以上にご存じの上で愛して下さっている。そんな私に救い主を送って下さった。そのような自分であることを知りなさい、喜びなさいということです。そして、自分を愛するように人々を愛しなさい。それも自分を愛するようにという、その根拠と同じです。かわいいから、カッコいいから、有能だから、役に立つから…。普通、わたしたちはそのような理由で人を愛します。それは、簡単なことです。と同時に、いつか必ず裏切られ、失望する、愛することが出来なくなります。多くの人が、ここで間違えて結婚してがっかりする。そうではなく、自分を愛するように、つまり、この人も神様がお造りになった人、神様は、この人の欠けをすべて知っている、わたしと同じように不完全でかけだらけ、でも神様に愛されている人。必ずイエスさまを知り、神様のもとに帰るに違いないと祈らざるを得ない人。そういう人であることを思いなさいということです。そのような愛は、自然な愛ではないでしょう。聖霊が結んで下さる実としての愛です。神様が与えてくださる愛です。わたしたちは皆、そのような招きを神様から受けているのです。応答しましょう。この招きに答えましょう。はい、イエスを信じます。イエスはわたしの救い主、人生の主です。イエスと共に歩みます、と告白しましょう。今が、今日がその時です。最後にコリントの信徒への手紙二6章2節からお読みいたします。「いまや、恵みの時、今こそ、救いの日」。この新しい年を迎えた今、新しい決心を、イエスを主とする決心を、神様の招きに答える決心をして下さい。

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