3月14日(日)ライブ礼拝  ああ、神の教会よ! Ⅹ 第一コリント 4:20

今日は、4章20節に焦点を当てて神様に聴きましょう。「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」とあります。神の国は神様の統御、支配。これでは固すぎて何のことだかよく分かりませんね。つまり、神様との交わり、わたしたちが聖書を読み、祈り、主に導きを求め、導かれ、教会の交わりをし、個人的にもキリスト者の友とお付き合いをし、そして、キリスト者ではない家族や地域、職場や学校の友人との付き合い・・、つまり信仰者としての生活すべての領域です。わたしたちは、生の全領域、生活の全領域が神様の御手にある事を知っていますので、それを神の国と言い現わすのです。つまり、信仰者の生活は言葉ではなく力にあるとパウロは語るのです。でも、ここで“あれ、本当”と思うのではないでしょうか。言葉、つまり福音には意味がないと言っているのだろうか。それは真逆でしょう。神の言葉よって救われ、神の言葉に信頼して生きるようにと聞いているけれど、どうなんだろう。イエスさまもマルコによる福音書16章15節、16節で「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」、つまり神の福音、神の言葉を伝えなさいと言っているではないか。マルコ1章1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」はイザヤによる預言の言葉に求められるとあるではないか。天地の創造も、「光あれ」をはじめとする神様の言葉によってなったではないか。ローマの信徒への手紙10章14節にも「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう」、そして、15節に「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しい事か」とあるではないか。だから、言葉こそが基本、土台ではないのか。そう思われるのではないでしょうか。それは、全くその通りです。しかし、今日のテキスト、コリントの信徒への手紙4章20節を文脈の中で読むと、「神の国は言葉ではない」とパウロが言うとき、この言葉は違う意味を持っていることが分かります。すでに学んだように、コリントの教会には分派がありました。パウロやペテロ、アポロなどを自分勝手に担ぎ上げてグループを作っていました。そして、互いに非建設的な議論、つまり誰のメッセージが素晴らしいか、どの先生が上かと品定めをするようなことが行われていました。また、おそらくパウロを担ぐ人々は恵みによる救いを強調し、ペテロを担ぐ人々は律法を強調していたのだと思います。また、キリストに付くという人は、もしかしたら神秘的なキリスト体験を誇っていたのかもしれません。つまり、神学論議が背後にあったと思われます。パウロの言う「神の国は言葉ではなく」は、そのようなことを背景として言われた言葉です。神学論議と言いますか、神学は大切。神様のことについて語り合い、時に議論することは大切。そして、神学的な議論をすることは楽しいです。わたくしは、神学生時代による誰かの部屋に集まり、ポップコーンとコーラを手にしながらああだこうだとつたない英語で議論したことが忘れられません。一生の大切な思い出の一つです。しかし、神学や、神学的な議論は信仰生活を作り上げる物自体ではない、神学は信仰生活に奉仕するものと位置づけられなければならないとパウロを通して神様は示されたのです。そうではなく、神の国は力にあるのです」ここからは、この力とは何なのかを考えてみましょう。「神の国は力にある」。第一には悔い改めの力です。悔い改めには力があるのです。罪を認めること、つまり、自分を第一とする生き方から神様を第一にする生き方に方向転換することに力があるのです。自分を第一にする罪の裁きをイエスが代わりに受けて下さったことを信じる信仰に力があるのです。神様との和解をもたらす力です。永遠の命が与えられ、神の子とされ、神と共に歩む人生の道が切り拓かれる力です。自分と言う限界を超える力、突き破る力です。この悔い改めによって、人はキリスト者となります。しかし、キリスト者になるとは罪を犯さなくなるのではありません。古い、自分を真ん中にして考え、計算し、生きようとする生き方はまだ死んではいません。だから、日々悔い改める必要があります。この、日々の悔い改めに力があるのです。日々の悔い改めによって躓いても態勢を整えられ、転んでも立たされるです。ヨハネの手紙一1章8節、9節に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます」とある通りです。第二につながる力です。まず、教会内のつながりです。悔い改めに生きる人同士のつながりです。一人一人の、神の前での悔い改めが人々をつなげるのです。なぜなら、悔い改める人はすでに述べたように自分ファースト、自分を中心に考え、計算し、行動することから解放された人です。何があっても自己主張、と言うのではなく、他者を受け入れ合い、高め合うことの出来る人です。自己主張にこだわり、自分を真ん中にすることから抜けられない人は他者を認めない人です。でも、悔い改める人は他者を認め、他者と出会うことが出来るからです。わたしたちの教会は安心して弱音を吐けることをビジョンにしています。悔い改める人の群れだから可能になります。また、適切にアドバイスをしあい、思いを伝えあうことが出来ます。少し前ですが、わたしがその人の話しかけに生返事をしたり、無視しているように感じると言われました。わたしは、特に人を乗せているとき車の運転中はあまり話したくないのだと伝えました。でも、普段でもそのようなことがあったら申し訳なかったと伝えました。改めることを伝えました。ちょっとした会話でしたが、その方が思いを伝えてくれたので理解し合うことが出来ました。でも、意外と思っていることを伝えることってないのではないでしょうか。変に受け取られないか、いやな顔をされないかと思って心にとどめ、それが否定的な人物評価につながったり、解決できない分陰口を言いたくなってしまうのが人の性格かもしれません。神様に受け入れられていることにしっかりと立つとき、そのことからも解放されます。あなたの感情を相手任せにしないのです。聴いてくれなかったと不快になる必要はないのです。相手が受けとめてくれるか否かは相手の問題です。謙遜に、もしかしたら自分に誤解があったり間違っているかもしれないという余地を残しながら伝えることがコミュニケーションです。悔い改めには力がある。教会の人のつながりは、悔い改める人同士のつながりです。教会の中だけではありません。わたしたちは、地域の中での教会、地域と繋がる教会ということ、そんな意識を持っていると思います。誰でも食堂を開き、ゴスペルを歌う会は市のサークルとして行っています。話食の会や手作りの会、ゴスペル・フラ教室、英語de聖書など、いまはコロナのために誰でも食堂以外お休みせざるを得ないのですが、地域と繋がることを思っています。地域の声に耳をすまし、応えていく姿勢を保ちたいと思っています。この力は、以前私に欠けていたと思います。教会の使命は福音伝道。そして、それはメッセージによる。しかし、福音は福音を生きることによってはじまると、今思っています。でも、それは始まりです。そこでキリストの香りをお伝えする。でも、香りで終わったらどうですか。美味しそうな鰻や焼き鳥の香りは差し上げるが、鰻そのもの、焼き鳥そのものは差し上げません。これはちょっと酷ではないですか。「神の国は言葉ではなく力にあるのです」。その力を今日聴きました。その後に、むなしい議論としての言葉でなく、神の言葉、救いの言葉そのものが来て初めて教会の働きは完成します。ペトロの手紙一3章1,2節にこのようにあります。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなた方の純真な生活を見るからです」。妻と夫に限らず、キリスト者とキリスト者でない人の話です。ここでは、神の国は力であることが語られています。悔い改め、神と繋がり、人と繋がる力です。同じ手紙の15、16節には、このように書かれています。「あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」。言葉で福音を伝えることです。穏やかに、敬意をもってですから自己主張の議論ではありません。相手を遣り込めるようなことではありません。聖霊に委ねて、イエスが何をしてくださったか、十字架の贖いを信じることで何が起こったのか、神様と歩むことがどんな素晴らしい事なのかを言葉で伝えます。ああ、神の教会よ!教会は、このような場所です。悔い改めの起こる場所、悔い改めに生きる場所、そして悔い改めの心をもって人々と繋がっていく。そのような教会でありましょう。

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