3月21日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! ⅩⅠ 第一コリント 6:12-20

今日は、少し硬いお話しです。キリスト者と倫理、信仰と道徳の関係をお話しします。このお話を始めるにあたって、まず倫理・道徳があって、その先に救いがあるのではないことです。善行を積んだり寄付をしたり、あるいは人格を磨いたりして一定のところまで来ると神様はわたしたちの罪を赦してくださる。これは、普通に考えるとそうだろうなと思えるのですが神様の方法はまったく違うということです。まず赦してくださる。そのために罪のない御子イエス・キリストを送って下さり、イエスはわたしたちの代わりに裁きを受けて下さった。そのことを信じることによって100%罪は赦されるのです。あの、ゴルゴダの丘を見てください。罪なき神の子、イエスが十字架に付けられています。両側にも二人の人が付けられています。そのうちの一人が悔い改めました。そしてイエスに言ったのです。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」。するとイエスは何と言ったでしょうか。もう遅い、善行を積む時間はない、あなたは人格的にも破綻しているではないか、とは仰いませんでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのです。ですから、救いのために、罪が赦されるために必要なのは善行や高潔な人格ではなく、道徳的な行いでもなくイエスへの信仰、これだけです。ペテロも、パウロも、ヨハネも、そしてコリントの教会の人たちもこの信仰によって救われたのです。しかし、あるコリントの人たちはここで思い違いをしました。「わたしたちは自由になった!」。これは間違いではありません。罪の裁きから、その呪いから自由にされました。しかし、彼らは取り違えたのです。道徳から自由になった。何をしても赦される。何をしてもいいのだ。そう考えたようです。事実、5章を読むと、彼らの間には世間一般の基準で考えても淫らなことが行われていて、しかも誰もそれを問題にしていないとあります。彼らの道徳観は、12節にあります。「わたしには、全てのことが許されている!」迷惑をかけなければ何もしてもいいのだ。もう裁きはないのだから。このようなものでした。パウロは、この問題を取り上げます。パウロは、性的な問題を取り上げていますのでわたしたちもこの問題について神様に聴きたいと思います。最初に、性は汚れたものではありません。神様がアダムにパートナーを与えた時、創世記2章24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。この一体と言う言葉には、肉体的な結合というニュアンスが含まれているそうです。また、箴言5章18節、19節を拾い読みしますと、「若い時からの妻に喜びを抱け・・いつまでもその乳房によって満ち足り 常にその愛に酔うがよい」とあります。ですから、性はまったく汚れたものでも避けるべきものでもありません。一方、性的な誘惑と言うのはとても力があるものです。わたしは男性なので女性のことは良く分かりませんが、少なくとも男性には強力な力があるのです。ただ、結婚という枠組みの中でのみ祝福される事柄です。ただ欲望を満たすことはもちろん許されません。数か月前まで読みましたマタイの福音書の5章から、山上の説教を覚えておられるでしょう。イエス様は、全ての人が罪びとであることをが分かるように、人殺しと姦淫を取り上げました。誰もが神様の前には人殺しであり姦淫をする者だというのでした。心の中での人殺し、姦淫です。人々は、イエス様の言葉の前に押し黙るほかなかったのです。さて、すでにお話ししましたようにコリントの教会の人たちは、この事に無頓着だったのです。「わたしには、全てのことが許されている。」そして、「食物は腹のため、腹は食物のため」と言う、おそらく当時のことわざだと思われますが、これも彼らのスローガンでした。言葉の意味は、人の欲望は自然なものだから、それに逆らわなくてよいということです。性の欲望は自然なものだから、それを満たせばいいじゃないか。お腹が減ったら食べるのと同じだ、ということです。それに対して神様はパウロを通しておっしゃいます。食物は腹のため、腹は食物のため、その通りだろう。しかし、体は淫らな行いのためではなく主のためにあり、主は体のためにおられるのだ。13節です。確かに、不道徳なことをしてしまったからと言って救いを失ってしまうことはない。わたしたちの救いは、わたしたちの手の中にあるのではなく神様の手の中にあるからです。わたしたちは、自分の救いのために何一つしておらず、すべて主がしてくださったからです。しかし、わたしたちの体は、体をもって生きるその人生そのものを含んで言っているのですが、それは主のためのもの、そして、主もわたしたちのためにおられる、共にいてくださる、そうではないか。と言います。さらに、14節で、わたしたちの体は復活に与る体ではないか。そして、わたしたちの体はキリストの体の一部ではないかと言います。確かに、わたしたちは、自分の欲求に振り回されていたかもしれない。欲望に振り回されていたかもしれない。しかし、コリントの信徒への手紙二5章17節、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。」新しく創造されたものです。全く違う生きる意味が与えられ、つまり主と共に、主のために生きるという意味が与えられ、主と共に歩むという生活スタイルが与えられた。そう語るのです。それでは、わたしたちが道徳的な判断するときの基準は何だろうか。人の目だろうか。みっともない、恥ずかしいということだろうか。子どものころ、「そんなことをすると人に笑われる」とか、「人様に迷惑だから」とたしなめられました。そうであれば、人が見ていなければ、分からなければいいということになりますね。キリスト者の判断基準は世の判断基準と違います。第一に、それは益となるかということです。神様の栄光を現すかということです。あなたが神様だったら、なんて大げさでなくてもいい、あなたの子どもがあなたの目の前でそのことをおこなったら、また、心の中がのぞけるとしてそれを見たらどうだろうかと考えてもいいでしょう。教会の栄光を現すかということです。教会の徳になるだろうかということです。そして、そうであれば、あなた自身を高めます。第二に支配されていないだろうかということです。不道徳には支配力があり、魅力があります。とらわれると、いやでも抜け出せなくなる力があります。もしも、そういうことがあるならば祈りましょう。聖霊なる神様に助けを叫び求めましょう。第三に、聖霊の実だろうかということです。ヨハネ福音書15章で、わたしたちとイエス様がぶどうの木と枝に例えられています。ぶどうの枝が幹につながっているからぶどうの実を結びます。切り離されていたら結びません。もしも、ぶどう以外の実を結ぶようでしたら、何か他の木に接ぎ木されているのでしょう。聖霊の実を結ばないならば、世に接ぎ木されているのでしょう。世からエネルギーを得ているのでしょう。今日のテキスト、6章19節に、こうあります。「知らないのですか、あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」最初に申し上げましたように、これは救いの条件ではありません。救われたから、罪を赦され神の子とされたから、新しい創造として私がここにいるのだから神の栄光を現そうではないか、と語りかけられているのです。完全に、いつもその通りに生きることからほど遠いわたしたちです。しかし、イエス様がいつもいてくださいます。転んでは助け起こして頂き、また罪を犯しては悔い改め、そのたびに自分を責めるのではなく、既に赦されている、すでに聖霊様がわたしの内に住んで下さっていることを覚え、恵みの深さを味わう機会として前進しましょう。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0