3月28日(日)ライブ礼拝  ああ、神の教会よ! ⅩⅡ 第一コリント 7:1-16

今日の個所は、聖書が書かれた状況を知らないと理解できない典型的な個所と言えるのではないかと思います。パウロは、結婚しない方がいい。でも、結婚してもいい。主が、そう命じておられます。主ではなく、わたしが言うのですが。なんだか混乱してしまいそうですね。知っておかなければならない背景が二つあります。一つは、パウロは、またこの時代のキリスト者は、イエス様の再臨がごくまじかにあると考えていたことです。もう一つは、コリント教会には放縦主義の人たちがいたと同時に極端な禁欲主義の人、霊は清く物質は汚れているという人もいたということです。(これは、ギリシャ人にとって自然な考えでした)そして、おそらくこの考えのゆえに離婚した人がいたのだと思われます。結婚は、肉体、物質に属することであり、だから汚れていると考えたからです。
この二つを押さえてから、この個所を読み解いてまいりましょう。第七章から、パウロはコリント教会からの質問に答え始めます。結婚は是か非か。これが質問でした。申しましたように、禁欲的な人々、また、物質は汚れたものであり、だから体は汚れたもの、したがって結婚も汚れた事だから避けるべきだという人がいたのです。それに対してパウロが答えているのです。まず、彼は1節で「男は女に触れない方が良い」、つまり結婚しない方がいいと答えています。これは、申しましたように主の再臨が近いと考えていたことが背景にあります。パウロは、26節では「いま危機が迫っている状態にある」と言い、29節では「定められた時は迫っている」とも言っています。ヨハネ黙示録やダニエル書を読むと、キリスト再臨の前に大きな患難の時代があると伝えています。そのことを考えると、結婚をして家庭を守るという責任を負うよりも独身でいる方がいいと言っているのです。決して、結婚そのものを否定しているわけではありません。だから、2節では、「男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」とも言っています。ただ、そこには「淫らな行いを避けるために」とあり、9節には「自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」と、しょうがないから結婚を許すみたいなニュアンスを感じさせる言葉があります。本当は独身でいるべきだけれど、無理なら妥協します、結婚しなさい、みたいに聞こえます。しかし、そうでないことは、たとえばエフェソの信徒への手紙5章21節から31節に結婚とはキリストと教会の関係を映す奥義だとあります。神様も、創世記にも1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ち」よとあるように結婚を祝福しています。ですから、結婚は単に情欲の暴走を抑えるためにするようなものではありません。ただ、パウロはここでとても現実的になっているのです。これは、講壇からは少し語るのをためらうのですが、人は追いつめられたような状況に陥ると性的な関係によってストレスを解消する誘惑に陥るそうです。コリント教会は迫害の中にいる教会でもありましたので、そのような中で現実的に語っているのです。さらに7節でパウロは、「人はそれぞれ神から賜物を頂いているのですから、人によって生き方が違います」と語っています。独身でいることが出来るのも賜物、結婚生活を送ることが出来るのも賜物なのです。ですから、自分で判断して、自分の賜物として独身を通すか、それとも結婚するかを祈って決めなさいというのがパウロの趣旨です。次にパウロは、既婚者に対して10節、11節で、「妻は夫と別れてはいけない。夫は妻を離縁してはいけない」と語ります。すでに申しましたように、禁欲主義的な人や物質を、体を汚れたものとみなす人の中に結婚関係を解消してしまう人がいたのでしょう。パウロは、それに反対します。ですから、ここに離婚はどんなことがあってもダメ、ということを読み込むことはできません。この個所からマタイによる福音書19章1節から12節を思い出す方もおられるでしょう。ファリサイ派の人が離婚について主に尋ねます。モーセは離縁状を渡して離縁するように命じたと言います。それに対してイエスは、9節で「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と答えます。ある教会は、これらの個所をもって、どんな理由があろうと離婚を認めません。しかし、ここも背景の理解が必要な個所なのです。当時、妻が気に入らなくなると簡単に離婚して他の女性と結婚することがなされていたのです。結婚するための離婚です。これはダメだと言われているのです。マルコによる福音書10章11節でイエスは、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言うのは、そのような背景を知って理解することが出来ます。もちろん、簡単に離婚すべきではないでしょう。しかし、残念ながらどうしても離婚という結果を迎えざるを得ない場合があるのも現実であり、それに対して神の教えはなすすべがないのか。そんなことはないのです。そこに至ったことを受けとめ、悔い改めるべきを悔い改めて進んでいくことこそを主は願っておられます。次にパウロが語るのは、夫婦の片方がキリスト者であり、もう片方はキリスト者でない場合です。もともと、二人は、異教の教えを信じ、偶像を礼拝していたり、あるいは無神論者だったでしょう。(当時、現代的な意味で無神論を奉ずる人はいなかったと思いますが)そして、どちらか一人がイエスを信じる信仰に与りました。この場合、配偶者がキリスト者でないからと離婚するべきなのか、あるいは離婚すべきではないのかと考える人がいたのでしょう。また、なんとかパートナーがイエスを信じるようになるようにとの理由で結婚関係を続ける人もいた事でしょう。この場合には、キリスト者でない夫、あるいは妻にかかっています。一緒に生活することを良しとしているならば別れる必要はない。でも、信仰を持った人とは暮らせないと去っていくならば、そのままにしなさいとパウロは教えます。生き方の違いのゆえに争いの絶えない家庭を維持するよりも、去るが儘にさせなさい。結婚に縛られている必要はありません。むしろ、平和な思いで主に仕えなさいとパウロは勧めます。それまで、イエスを信じていない配偶者や子供は聖なるものとされているとあります。これは、片方が信じていれば、配偶者や子供は信仰を持っていなくても天国に行けるとか、そういうことを言っているのではありません。「聖」と言う言葉は区別を表す言葉だと何度かお話ししました。彼らは、証しに触れている、信仰者の生活を見ているという意味で、そうでない人から区別されているという意味です。結婚については、25節からも語られていますが、要するにここから聞くべきことは何でしょうか。結婚についての考え方。それもあります。と同時に、わたしたちは知恵を用いて判断しなければならないということです。状況を見て、何がいまの最善なのか。状況次第で最善であることがそうでない時もある。だから、今、皆さんや私が置かれている状況の中で聖書を開き、神様の言葉を聞き出し、祈り、そして判断せよということではないでしょうか。コロナ・ウイルスが蔓延している中で教会に普通通りに集まるべきか、それとも配信によって礼拝を持つべきか。いつ、集まることを閉鎖し、また再開するか。それぞれの教会が問いかけられており、それぞれの教会が悩み、苦しみながら決断しています。まさに、状況の中での決断です。わたしたち個人の生活にも状況があります。その中で、画一的に聖書にこう書いてある、と言うのでなく、一生懸命に神様に祈る。一生懸命に神様に聴く。その中で、示されたところに従っていく。それが信仰生活です。

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