3月7日(日)ライブ礼拝 ああ、神の教会よ! Ⅸ 第一コリント 3:10-17

教会を作り上げることが語られています。建物に例えられています。土台、つまり基礎を作り、上物を作ります。誰が作るのか、この聖書箇所ではパウロが土台を据え、次の牧師が上物をと読めます。確かに、まず宣教師が派遣されて教会建設が始まる。その通りです。しかし、特にバプテスト教会では一人一人の教会のメンバーが教会を作り上げていく役割を担うことが強調されます。誰かの指導の下に、ということではないのです。皆さん一人一人の働きなのです。そのことを抑えて、今日の聖書箇所を読みたいと思います。まず、土台は何か、基礎は何かということです。基礎の部分は家が建ってしまうとあまり目立ちませんし、そこに美しさを感じたり建物の価値を見出したりすることはないかもしれません。しかし、基礎がしっかりしていなかったら建物が傾いてしまったり、地震の時に簡単に崩壊してしまったりします。だから、基礎は専門の職人さんが時間をかけて作ります。教会の基礎は何か。パウロは、イエス・キリストだと断言します。これ以外にはありえないと言います。土台がキリストでなければ教会のように見えたとしても教会とは全く違ったものだということです。それでは、キリストが土台とはどういう意味でしょうか。救われた人の群れであるということです。キリストを告白する人たちの群れということです。つまり、イエス・キリストは人となられた神でありわたしの救い主、わたしの罪の責任を引き受けて下さり、十字架で裁かれ、三日の後に復活されて罪の結果である死に勝利された。この十字架の業によって私は罪を赦され、神のもとに回復された、神の子とされたという信仰に立つ人々の集まりであることです。ある人たちはイエスはただの人間だと言います。また、十字架の贖いを信じません。よく知らない人は、彼らもキリスト教徒だと思います。彼らの集まりも教会だと思ってしまいます。しかし、全く違う者であることをしっかりと知らなければなりません。今年の正月、そのようなグループから年賀状が来ました。お付き合いはないのですが、お互いにイエスを宣べ伝えましょうとありました。しかし、その人たちが伝えているイエスは、聖書を通して神様が教えてくださるイエスとは全く違ったものなのです。さて、皆さんが家を建てるとします。1週間くらいかかるでしょうか。ようやく基礎が固まりました。めでたしめでたし。これで完成と作業をやめてしまう人はいないでしょう。上物を作ります。木造でしょうか、鉄筋でしょうか。材料を選んで建てあげていきます。教会も同様だとパウロは言います。六つの材料が例として挙げられています。金、銀、宝石、木、草、藁です。金、銀、宝石は燃えない材料です。木、草、藁は燃える材料です。そして、いつかその教会が試されるときが来ると言います。燃えない材料の教会は燃えない。燃える材料の教会は燃え尽きてしまうとあります。仕事が明らかになるとあります。どのような教会なのか、神様の栄光を現す教会なのかそうでないのか、神様が喜ばれる教会なのかそうでないのかが明らかになるとあります。燃えてしまう教会も土台は残ります。ですから、この教会は異端の教会ではありません。確かにイエスを救い主であり主であると信じる人たちの群れなのです。それでは、何が違ったのか。燃えてしまった方から考えてみたいと思います。パウロは、明らかに、このままではコリントの教会は燃えてしまう。木や草、藁でできた教会だと考え、心配しています。ですから、コリント教会の特徴を読み解くと、燃えてしまう教会がどのような教会かが分かります。彼らは人間的な力に優れていました。そして、そのことを誇っていました。18節から21節から分かります。最初に、この手紙はコリント教会からのたくさんの質問に答えるためのものであったことをお話ししました。つまり、彼らは議論先行型だったのです。神学先行型と言ってもいいでしょう。議論や神学が無価値だと言っているのではありません。そうではなく、議論が議論に終わり、神学が神学に終わってしまうことが問題なのです。ヤコブは、その手紙の2章14節から17節で「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言っています。また、知力や財力など人間的な力で教会を建てあげようとするならば、人には良く見えるかもしれませんが、神様の目には残念な教会なのです。では、金や銀、宝石で立てられる教会とはどのような教会でしょう。既にお分かりかと思います。神様に力と導きを求め、期待し、人間的には無理と思われても示されたならそこに従う教会です。人間力は、いわば道具として神にささげられている教会です。そして、議論もする、神学もする、しかし、そこに留まるのではなく、実践していくことです。もう一つ。ある人がイエスに律法の中でどの戒めが大切ですか、と尋ねました。今日のテキストに照らして言い換えれば、何をもって教会を建てあげればいいですかということです。それに対して、イエスはマタイによる福音書22章37節から40節で次のように答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」第一と第二は、土台と上物の関係かもしれません。救いの神に感謝する。愛する。そして、それが自分との関係、人との関係を規定する。神の作品である自分を感謝し、愛し、同じように神の作品であるこの人を、その人を感謝し、愛することです。存在を認め合うことです。必要があれば、出来ることをすることです。手を差し出すことです。愛を実践することです。そのような教会は、神様に喜ばれます。教会は神の神殿だと17節にあります。聖なるものだとあります。聖なるものと言うのは欠点がないとか罪がないという意味ではありません。神様を喜ぶ場所として、神様と出会う場所として、そして神様の御心を力は足りないけれど、不十分なわたしたちだけれどなしていく群れとされているということです。神の神殿にこれからなろうとしているのではありません。もう、神の神殿なのです。もう聖なるものとされているのです。御用に呼び出されているのです。どの教会も建築中です。わたしたちの教会は、どのような材料で立てているのでしょうか。金、銀、宝石で建てたいと思います。木やわらが混ざっているならば、それを取り除きたいと思います。この良きこと、つまり教会を多摩の地に建てるという働きを始められた主は、最後まで私たちを導いてくださいます。主に聴き、主に従って私たちの教会を建てあげましょう。

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