4月4日(日)ライブ礼拝  復活の命を生きる マタイ 28:1-10 (イースター礼拝メッセージ)

イースターおめでとうございます。イースターは、あまり馴染みのない方もいらっしゃるかもしれません。復活祭とも言います。クリスマスに比べると地味な印象かもしれません。しかし、ギリシャ正教などではクリスマス以上に重要な行事とされているようです。復活。死からの甦りです。イエス様が、十字架で死なれて三日目によみがえられたことを覚える日です。復活も神様の御手の中にあるのです。生まれることは神様の御手の中にある。これは、キリスト者でなくても感覚的にわかることかもしれません。「子は授かりもの」と言う言葉に神様か仏様かわからないけれども、子どもと言うのは、天からの授かりものなのだというわけです。人生は神の御手の中にある。キリスト者は、神様がわたしの生命を支え、それだけでなく人生を導いてくださっているのだと教えられ、それを体験します。死は神様の御手の中にある。これも分かるのではないでしょうか。いつか必ず死ぬ時が来る。突然かもしれない。天寿を全うして死ぬかもしれないが、いつか来る。それは、神様が決められた時が来るということなのではないか。そんな感じはだれにもあるのではないでしょうか。では、復活は神様の御手の中にある。これはどうでしょうか。パウロがアテネで福音を伝えました。みんな熱心に聞いていた。しかし、死者の復活を語ると、信じた人も何人かいたけれども多くの人はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらう事にしよう」と言って去っていったとあります。しかし、復活も神様の御手の中にあるのです。これは、神様のメッセージの肝なのです。これなしに神様のメッセージはあり得ないのです。イエスは、死んで、三日の後に復活された。それこそが希望です。わたしたちがどうしても勝つことの出来ない死。罪の結果として避けられない死。しかし、イエスは死んで復活された。死に勝利された。罪に勝利された。そして、その勝利は、復活の勝利は信じるものすべてのものだということ。それが神様のメッセージです。しかし、ある人は仰るかもしれません。それは、素晴らしい。しかし、わたしはいま助けが必要なんだ。今、大変なんだ。死んでも復活するというのは素晴らしい知らせだけど、今の私にはあまり関係がない。いや、関係があるのです。神様は、今の、この人生で復活劇を起こされるというメッセージでもあるからです。罪を悔い改めること。それは、反省することとは違います。イスカリオテのユダは、痛烈に反省しました。自らの命をもって償う程に反省しました。しかし、悔い改めはしませんでした。悔い改めと反省は二つの異なるものです。悔い改めは方向を変えることです。生き方を変えることです。自分を真ん中に据えて生きることから、神様を真ん中に据えて生きることに変えることです。神様を人生のパートナーとすることです。だから、自分の力、考え、思いだけによって生きる生き方から、それらを持ちながらも神様に問い、神の指し示すところに従う生き方に変えることです。新しくなったのです。生き方が。人生の復活です。コリントの信徒への手紙二5章17節では、そのことをこのように言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」キリストと結ばれるとは、キリストを人生に迎え入れることです。罪を悔い改め、そう、先ほど申しましたように方向転換をして、これからイエスと共に生きようと決めることです。その人は誰でも。誰でもです。どんな人でもです。ですから、遅すぎることはありません。早すぎることもありません。やり直しできないほど過去が汚れているとか、現状がめちゃくちゃだとか、そんなこと関係ありません。死に打ち勝ったお方にとって、そんなことまったく問題ではありません。その人は、新しく創造されたものなのです。天地創造の創造です。何もないところから作り出す神の働きです。何もないと言っても、創世記1章2節を読むと神様が創造を開始されようとしたとき、「地は混沌であって、やみが深淵の面にあり」とあります。ことは混乱しており、カオスであり、手が付けられない、そんな状況です。しかし、そのような中で神様は「光あれ」と創造の業を始められました。光です。暖かい。明るい。希望の光。その光が差し込んだのです。ですから、イエスを信じた人は新しく創造された者だと聞くとき、この天地創造を想起するといいでしょう。たとえ、あなたの人生が混乱していて手を付けられないようであっても大丈夫なのです。ただ、主のみ業あるのみです。わたしたちは、そのような時に環境を変えてみよう、部屋の模様替えから仕事や住むところ、あるいは教会を変えることまでいろいろ考えたりしますが、そんなことしても解決はないのです。主は、混沌の中に直接働かれるのです。古いものは過ぎ去ったとあります。古いものは死んだとも訳せます。もう、死んだのです。無関係になったのです。ただ、一つ言わなければなりません。わたしたちは、いない者、ありもしない者の陰に脅かされることがあるということです。サタンは、死んだことを思い出させようとします。過去の否定的なものに目を向け、そこにあなたの心をとどまらせようとします。また、わたしたち人間も、そのようにする傾向があります。罪の性質です。古いものは過ぎ去ったと聞くのに、「いや、そんなことはない。あの時こうしていれば、ああしていれば」と自分に語り続けるのです。なぜそれが罪かと言うと、それは神様への不信仰そのものだからです。口では言います。神様は全能だ。しかし、心の中で別のことを言うのです。あの時こうすれば。わたしは、こうだったから。いまさら取り返しはつかない。だから、復活の命を生きるのには戦いが伴うことが分かります。サタンとの戦いであり、また自分の中の罪の性質との戦いです。それでは、どのように戦おうか。この戦いに勝利するにはどうしたらいいのか。目を正しいものに向けるのです。否定的な思いにとらわれているとは、そのような物に目を向け、目を据え、じっと見つめ続けていることです。見れば見るほど、それは生き生きとして来てあなたを支配することでしょう。そうではなく、復活に目を注ぐのです。エフェソの信徒への手紙1章19節から21節には、次のようにあります。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座につかせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」イエスは、復活された。死に勝利された。混沌の極み、カオスの極み、否定的なものの極みである死に勝利された。その勝利は、わたしのもの。その力がわたしの生きる力。その事実に目を向けるのです。そして、目を向け続けるのです。エフェソの信徒への手紙4章22節から24節。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に付け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」古い人を脱ぎ捨てるのです。新しい人を身に付けるのです。復活の命に生き続けるのです。それが、ここで言われている真理に基づいた正しく清い生活なのです。このイースターの今日。落胆している人がいるでしょうか。がっかりしている人がいるでしょうか。あなたに、希望のメッセージがあります。遅くはない。今日から、復活の命を生き始めることが出来る。イエス様に「わたしのパートナーとなって下さい。共に歩んでください。わたしを導いてください。力となって下さい。」そう、語りかけて下さい。イザヤ書の40章28節から31節を読んでメッセージを閉じます。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は究め難い。疲れた者に力を与え 勢いを失っているものに大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

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