神様の悲しみ ローマ1:18-32

今日は、ローマの信徒への手紙118節から32節を読みました。神の怒りについて書かれています。私たちが神様を神としないで神ならぬものを神としていることに対する怒りです。さて、神の怒りと聴いて、ある人は意外に思われるかもしれません。神は愛なりとよく教会の前を通ると掲示板に書いてあるではないか。神様は罪人を愛して下さる神なのではないか。そう思われる方もいるでしょう。また、キリスト者であるみなさんにお尋ねしますが、誰かを教会に誘おうという時に、「今度の日曜日には神様の怒りについてのお話があるから来ませんか」とは、どうも誘いにくいようです。でも、読んだように、聖書は神様が怒っておられることを明確に伝えているのです。怒りという言葉には、どうもマイナスのイメージが強いようです。しかし、ここで私たちが知らなければならないことがあります。私たちが怒りと聞くと、切れてしまって、感情がコントロールできなくなって大きな声を出したり、うっかりすると手が出てしまう…、そんな事が思い浮かびます。神様の怒りを自分が怒った時の体験を通して考えて、それと同じようなものだろうと思います。しかし、神の怒りは神様が切れてしまったり、感情が爆発してコントロールできなくなって・・というようなこととは無縁です。さらに、怒りは二次感情だという事です。二次感情というのは、実は別の感情があって、そちらの方が本物で、その後に出てくる感情の事です。例えば自分には身に覚えのない事なのにやったに違いないと決めつけられたらどうでしょうか。怒りを覚えるでしょう。でも、怒りは表面に出て来た感情で、本当は、その時あなたは悲しみを感じているのです。誤解をされた事、不当に責められることへの悲しみです。お子さんが何度言っても勉強せずに立て続けに0点を取って来て、しかも平気な顔をしているとします。お父さん、お母さんは怒るでしょう。でも、その背後にある本当の感情は悲しみです。あんなに注意したのに聴いてもらえなかった。その結果、0点ばかり取っているのになおも平気だ。そのことがわたしは悲しい、これが本当のところです。だから、神様の怒りという時、神様の悲しみと言っても良いのです。そのことをおさえたうえで神様の怒りについて読み解いていきたいと思います。神様は、何に対して怒っておられるのだろうか。「不義によって真理の働きを妨げるあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされます」とあります。真理の働きを妨げることに怒られるのです。真理は働くのです。聖霊によって働くのです。つまり、聖霊がわたしたちが神様から離れていることを示し、その結果、自分自身や憧れの人や、世の中の描く成功イメージに支配されて不自由になっていることを示して下さり、そのようなものを追い求めるのではなくイエス・キリストに従う事を迫って来るのです。それを、真理の働きと言っています。そして、それを妨げること。イエスによる救いと解放、導きに「それは不要です」と言い、私は自分の描く成功、それが社会的な成功であれ、人格的な成功であれ、自分の描く成功の方を選びますと決める時、また、イエスを信じたりするよりもその方がいいよと主張する時に真理を妨げているのです。このことに、神様を悲しまれるのです。怒られるのです。でも、神様は見えないし、声も聞こえないじゃないか。だから本当に神様がいるのか分からないと言うでしょう。その言葉に対して神様自らが19節で反論します。いや、誰にでも神がおられることは自然を通して分かるのだ。いや、もう分かっているのだとおっしゃいます。教会の入り口前には、たくさんのお花があります。ある方が熱心に手入れをして下さり、四季を通して花が咲いていないことはありません。私たちは、美しいな、かれんだなと心を和ませます。でも、花に聞いたら、あなた方を楽しませるために咲いているのではありませんと言うでしょう。虫に来てもらい、蜜をあげる代わりに花粉をめしべに付けてもらう、それが花が咲く理由です。誰が、そのような知恵を授けたのでしょうか。このこと一つとっても、被造物の世界は偶然できたのではなく、神様が造られたものであることが分かります。進化によって花が受粉に有効であることを草木自らが学習したとしたら、そのことを学習する前に滅びてしまったにちがいありません。自然の世界を見れば、そこには神様の知恵が満ちている事がよくわかります。19節にあるように、そのことは“明らか”なのです。20節では、神を知ることができますとありますが、この“知る”と言う言葉は、絶対に間違えることなく、誰にでも知ることができるという意味です。だから、弁解の余地はないのです。20節にある通りです。しかし、21節以下を読むと明らかなのに人は、わざわざ神様を神としないでそうでないものを神としたとあります。神とは、平たく言えば絶対だとするもの、一番の頼り、これさえあれば、また、これがなければ、というものだというと分かりやすいかもしれません。ここでは滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像を神としたと書かれています。でも、像に限りません。申しましたように、どうしても手放せないもの、何が何でも手に入れたいもの・・、つまり、一番信頼しているもすべてが像、偶像です。旧約聖書のイザヤ書578節、ここを新改訳で読みますと、「あなたは、扉と柱の後ろに、あなたを象徴する像を置いた」とあります。つまり、自分の欲望を映し出した像、象徴する像、それが偶像です。このように言われると、私たち誰でも覚えがあると思います。クリスチャンになってからでも、しばしば偶像の誘惑にかられることがあるというのが正直なところではないでしょうか。信仰も良いけれども、今はそんな悠長なことを言っていられないのではないか。数週間前に受験生となって、みんなは日曜日に塾に行って勉強しているけれども自分は礼拝だけは休まないと決めた方のお話を紹介いたしました。神様は、その信仰を喜んで下さって、ただ希望の学校には入れただけでなく、期待をはるかに超えた楽しくて有意義な学校生活を送ることが出来たという事でした。でも、もしかしたらふっと、大丈夫だろうかと思ったことがあったかもしれません。礼拝する時間があったら勉強した方が、と思ったことがあるかもしれません。その方がむしろ自然です。クリスチャンであってもです。そのような時、私たちは偶像を信頼するのか、神様を信頼するのか、とチャレンジを受けているのです。さて、人は真理の働きを妨げ、神を神とせずに神ならぬもの、本当は信頼することのできないもの、助けにならないものを神としました。その結果はどのようなものでしょうか。混乱です。私たちはロボットのように神様に言う事を聴くように作られたのではありません。自由意思を与えられています。その自由意思で神様を受け入れない事、真理の働きを拒み、妨げることを選んだわけですので、神様はそのことを尊重なさいました。24節に、神様は私たちが心の欲望に支配されるままにされたとあります。神様が意地悪なのではありません。私たち人間がそのように選んだのです。その結果の混乱です。性的な混乱について書かれています。また、29節以下にたくさんの事が列挙されていますが、要するに、これらの感情の背後のあるのは怒りです。自分の思うままにならない怒り。自分が一番でないゆえの怒り。その怒りのゆえに妬み、殺意を抱き、不和になり、陰口を言い、大法螺を吹くなど、すべて怒りの故です。そして、最初神の怒りは、実は神の悲しみだと申しましたが、ここでも人の怒りの背後には悲しみがあります。神を離れた状態の人間は悲しいのです。だから怒るのです。私たちは悲しみを知っています。怒りを知っています。そして、自分を主とするのではなくイエス・キリストを主とした時、この悲しみから解放されたのです。怒りから解放されたのです。もちろん、それでも怒ることがあるでしょう。でも、それは、もう本来の私たちの姿ではないのです。怒りに振り回されそうになった時、怒りに支配されそうになった時、十字架を見上げることが出来るのです。私たちは、真理を妨げるものでしたが、今やその真理を受け入れたものです。あなたに信頼します。あなたが全てを導いて下さることを信じますと、告白することが出来るのです。

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