二つの熱心 ローマ 10:1-4

読み続けていますローマの信徒への手紙、10章に入りました。今日は、その1節から4節までを読みます。ここで、パウロは「兄弟たち」と語り始めます。随分改まった感じです。それは、これから彼が言う事が心からのものであることを感じさせます。彼の心からの願いはユダヤ人たちが救われることであり、そのことを祈っていると語ります。ユダヤ人たちは、自分たちこそが救われている民、神の民だと自負しています。しかし、パウロは彼らの救いを祈ります。そして言います。彼らユダヤ人は神について熱心だ。本当に熱心だ。ただ、残念なことにその熱心は正しい認識に基づくものでない。だから空回りしている熱心さ、的を得ない熱心さだと言います。では、正しい認識に基づかない熱心さとはどのような熱心さなのだろうか、また正しい認識に基づく熱心さとはどのような熱心さなのだろうか。そのことを聴き取りたいと思います。最初に、正しい認識に基づかない熱心さについて考えてみましょう。それは、一言で言うとキリストとの関係に基づかない熱心さであり、自分を軸にした熱心さです。そして、それはいくつかのかたちで見る事が出来ます。第一には、ただ益を求める熱心です。神様は、わたしたちが自分の利益にさとく、熱心であることをご存知でした。だから、十戒の中でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められています。ここでみだりに唱えるとは、ただ自分の望みを実現するために祈ることです。神様に仕える思いの中で祈るのでなく、まず自分の望み、欲望があり、それが実現するために神様に祈ることです。神様を自分の思うように動かそうと祈ることです。わたしたちは、あからさまに商売繁盛、家内安全と祈ることはないかもしれません。でも、ただただ病が癒されるように、直面している問題が、氷が解けるようになくなるように・・、そのような祈りももしかすると自分を軸にした、ただ益を求める熱心から来る祈りかもしれません。ルカによる福音書17章11節以降を読みますと、重い皮膚病を患った十人の人がイエス様を出迎え、遠くの方に立ち止まったまま声を張り上げて「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんで下さい」といったとあります。イエス様は、祭司の所に行って体を見せるように言います。彼らは、イエスの前に謙遜に、遠くに立って、でも熱心に、声を張り上げてお願いしたのです。イエスの言葉に従って、病のまま祭司の所に行きました。それは、勇気のいる事でした。もしも癒されないで祭司の所に立ったら問題が起こるからです。でも、彼らは行きました。熱心でした。でも、癒された後、一人の人がお礼を言いに戻ってきただけでした。他の九人の熱心は、ただ自分の益の為の熱心だったのです。人の関心を得るための熱心もあります。マタイによる福音書6章でイエス様は、見てもらおうとして、人の前で善行をしたり、祈ったり、断食したりしないように注意しなさい、とおっしゃいました。他人ごとではありません。私たちは、人に見てもらって、認められることが大好きなものです。認められないと寂しいものです。しかし、人に認められるために熱心であることは正しくないのです。そうであると競争が始まります。比較が始まります。人より熱心と思えないと不安になります。熱心な人に引け目を感じます。つまり、神様とわたしたちの間に“人”が余計なものとして入ってしまうことになります。さらに、救いを得ようという熱心も正しい認識に基づいたものではありません。マタイ19章に登場する青年は、永遠の命を得るために、どんな良い事をすればよいのかとイエスに尋ねました。彼は、良い事、すなわち自分の行いによって永遠の命を得るのだと誤解していたのです。彼は、ユダヤ人の代表です。今日のテキストのローマ書10章3節、また9章32節でパウロは、この青年が、またユダヤ人たちが自分の義を求めようとしていることを指摘しています。自分で義人になろう、神様の前に正しいもとなり、それによって救いを求めようとする熱心は正しい知識に基づかない熱心なのです。また、救われた人が、自分の義によって救いを保とうとか確かなものにしようとするのも正しい知識によるものではありません。ただイエスにある救いを信じて義とされる。それが正しい知識です。それ以外にありません。救いをもたらす知識はイエスの十字架のみです。パウロはたくさんの知識を身に付けた人でしたが、コリントの信徒への手紙一2章2節で十字架に付けられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたと言っています。罪の贖いとして十字架について下さったキリストを知る事、信じる事、その信仰によって義とされ、神の子とされたのだ、これだけが正しい知識なのです。さて、その知識による熱心はどのようなものでしょうか。正しい知識による熱心のしるしはどのようなものでしょうか。まず、感謝と賛美にあふれるということです。すべては、主がなして下さったのです。私の救いはわたしの行いにあるのではない。私の救いは主の行いの中にあるのだ。そして、これからの私の歩みも主の内にあるのだ。主が方向を定め、そこに向かうための思い、力、知恵、同労者を備えて下さり、導いて下さるのだ。崖っぷちや谷を通らなければならないこともあろう。でも、主が共にいて下さるのだ。だから安心していいのだ。その思いをエフェソの信徒への手紙5章18節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語りあい、主に向かって心からほめ歌いなさい」と言っています。歌にはいろいろあります。恨み節があります。諦めの歌もあります。怒りの歌もあるでしょう。でも、神様がわたしを愛して下さった。ご自分の御子を与えて下さるほどに愛して下さった。そして、復活のイエスがわたしを支えて下さる。一緒にいて下さる。その事を思う時に恨み節が出ますか。諦めの歌が出ますか。私は川原の枯れススキと歌いますか。そうではない、聖霊に満たされて賛美を歌うのではないでしょうか。正しい知識による熱心に支えられて奉仕する時、不満や比較から解放されます。喜んで奉仕する事が出来ます。先日、長野県坂城町のキッズ・クラブを視察させて頂きました。子どもたちが帰った後のスタッフのミーティングの時に、やらなければならないからやっているスタッフは一人もいないと話して下さいました。やらなければならないのだったらやらない方がいい。疲れるから、自分はこんなにやっているのにと不満が出るから。人を責めたくなるから。そうおっしゃっていました。なぜ、そう言えるのか。なぜ、喜んでする事が出来るのか。それは、キッズ・クラブが神様の業であり、自分たちはその神様の業に参加させて頂いている、用いて頂いているという思いが明確にあるからです。私たちはどうでしょうか。みなさんは、正しい知識に基づいた熱心をもって今日教会に来ていると思います。元気をもらえるかもしれません。癒されるかもしれません。暖められるかもしれません。でも、それを第一の目的に来ておられる方はいないと思います。まず、神様の前に出る。感謝をささげる。賛美をささげる。神様とともにあることを喜ぶ。受けるより捧げるために来ておられると思います。奉仕はどうでしょうか。やらなければならないから、みんなやっているからしている人はいないと思います。神様が用いて下さっていることを感謝して奉仕されていると思います。正しい知識に基づく熱心さをもって礼拝し、奉仕し、そして、日々の生活を家庭で、職場で、学校で過ごしておられることと思います。それが神様に栄光を期することであり、神様はそのようなあなたを喜び、祝福されます。

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