イスラエルのために祈れ ローマ 11:11-36

今日は、ローマの信徒への手紙11章11節から36節まで、かなり長い部分を一気に読んでいただきました。今日は、この個所を一字一句読み込むということはしないつもりです。私は、この聖書個所を読んで詩編112編6節、7節のみ言葉が響いてきました。そこには、「エルサレムの平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの城郭の内に平安があるように」とあります。口語訳では「エルサレムのために平安を祈れ」と訳しています。こちらのほうが真意を伝えています。平和を求めようという勧めではなく、平安を祈れという命令です。エルサレムの平安を祈れということは、エルサレムはイスラエル全体、ユダヤ民族を代表する象徴ですから彼らのために祈れということです。彼らの平和、平安とは何かといえば、政治的、軍事的な平和もありますが、それ以上に神様との平和、平安です。イスラエルの神との和解を祈るようにと私たちは命じられているのです。なぜならば、私たちはイスラエルと無関係に神様に救われたのではなく、イスラエルに接ぎ木されたものとして、今、神の前にあるからです。このことは、イスラエルの歴史を見れば明らかではないかと、今日の聖書個所でパウロが伝えています。それを理解するためにイスラエルの歴史を人の側からと神の側から見る必要があります。まず、人の側からみるとイスラエルの歴史、神の民の歴史はどのようなものか。それは不信仰の歴史、裏切りの歴史です。そのことを、殉教する直前にステパノは要約して述べています。使徒言行録の7章です。彼は、神様がモーセを選んでユダヤ人たちを奴隷であったエジプトから救い出してくださったことを述べた後、「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず」と続けます。そして、彼らがエジプトを懐かしく思い、また雄牛の像を作って、それを礼拝し、天の星を拝んだ事実を語ります。それに続く歴史も同じように神様から離れる歴史、背く歴史であったことを語り、いつも聖霊に逆らい、神からの警告の言葉を伝える預言者を殺してきたと言います。旧約聖書を読むならばステパノの総括が正しいことが良く分かります。荒野をさまよい、カナンの地に導かれるまでの事だけでなく、士師記を読むならば、周辺民族からの侵略を受けると神頼みをするけれど喉元過ぎれば熱さを忘れ、神様を忘れることの繰り返しです。神様に直接治めて頂くことを嫌って王制をしき、やがて立てられる王様たちは堕落して国は分裂し、そこを周囲の国々に付け狙われると神様に帰るのではなく、そんな安全などないにもかかわらず、どこの国に助けてもらおうか、どこと同盟を組めば安全だろうかと、右往左往する姿を見ます。結局彼らはバビロン帝国に滅ぼされ、民族離散の憂き目にあってしまいます。アレキサンダー大王のギリシャ帝国が大王の死によって四つに分かれ、ユダヤの地が地政学的な空白となって一時的に独立を回復しますが、それでも神様に栄光を帰することなく、ついには約束の救い主、メシアであるイエス・キリストを拒んで十字架につけてしまいます。まさに、不信仰と裏切りの歴史です。一方、神様の側からイスラエルの歴史を考えるとどのようでしょうか。今までお伝えしましたようにイスラエルの民は神の民でありながら、そしてエジプトから神の奇跡的な介入によって助け出されながら神様を神とせずに雄牛の作り物や天の星を拝んだり、さらには、約束の地を偵察に行ったはいいけれども強そうな先住民がいるのを見て、とてもじゃない、あんな所に行ったら皆滅ぼされてしまうと尻込みしてしまい、でも、神様はモーセの次にヨシュアという指導者を起こして彼らを約束の地に導き入れました。士師の時代には、のど元過ぎて神様忘れ、でも暫くするとまた外国の侵略を受けると神様に助けを求めてと、何度も同じことの繰り返しでした。それでも神様は、彼らの苦しみを見るに堪えず、また彼らは神様の民だということを忘れることなく助けの手を差し伸べました。確かにユダヤの民の不信仰のゆえにバビロンに滅ぼされる憂き目を見ましたが、それでもペルシャ帝国のキュロスという王様の心に働きかけて彼らを解放したではありませんか。神様の愛のメッセージの極みであり、人となってきてくださった神ご自身であるイエス様を受け入れないばかりか十字架につけてしまった。その40年後に、ローマ帝国によって国は完全に滅亡して世界中に散り散りバラバラにされたユダヤ人。どこの国でもさげすまれ、差別されたユダヤ人。でも、神様は1948年、2000年近くも姿を消していた彼らの国を再興して下さったではありませんか。イスラエルの歴史は、神様の側から見るならば神の忠実の歴史であり、決してあきらめることのない神様のお姿を見る歴史です。このことを押さえた上で、私たち異邦人はイスラエルへの神様の在り方、神様の彼らへの約束に接ぎ木されたということを思いめぐらします。神様のあきらめない、決して捨てない愛。どこまでもあなた方は私の民という神様の約束に私たちは接ぎ木されているのです。その愛と約束を、本来ユダヤの民のものであるその約束に預かるものとされているのです。そして、それは神様の知恵によるものだと33節は伝えます。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。なぜ、パウロはこのように、「ああ」と感情がほとばしり出たのでしょう、そのように言ったのだろうか。神様は、決してユダヤ人にかけたのだけれど駄目だったので異邦人を憐れむことにしたということではなく、異邦人を憐れみ、恵むことによってもう一度ユダヤの民に働きかけているのだというのです。そのことにパウロの心は動かされたのです。世界中に、イスラエル国にもメシアニック・ジューと言われる人たちがいます。イエスをメシア、救い主と信じるユダヤ人という意味です。人数的にはほんの少数です。大多数のユダヤ人は、今もイエスを救い主とは信じないで、これから来る彼らのメシアを待っています。少数ではありますが、クリスチャンたちが伝える福音によって救われるユダヤ人がいるのです。しかし、いつから始まるのか、世の終わりの7年間、神様はもう一度、直接的にユダヤ人に働きかけます。艱難があります。その艱難の中で、ついにユダヤ人から救われる、イエスこそがメシアだったのだと告白する人たちがたくさん起こされてくるのです。神様はユダヤ人をあきらめません。神様は、異邦人もあきらめません。神様は、あなたをあきらめません。今日、今、このつたないメッセージすらも用いて神様はあなたに語りかけています。そして、今日のメッセージの題をもう一度振り返りましょう。エルサレムの平和を祈れ!私たちは、接がれた私たちの元木であるイスラエルの民が神との平和を知るように祈りましょう。

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